立て続けの更新なのは、明日からに向けての事情でした。
明日から近畿方面に4日ほど高飛びするので、更新が停止します。わっほう。
ちょうど先ほど、面倒な課題も終わったので心おぎなく往ってきます。
ひとりで。
わっほう~。
まあそうした寂しんぼな事情はともかくとして、
ここんところの文芸春秋は歴史小説の連載がとっても豪華ですね。
『昭和天皇』の後に『三国志』です。
この連載の順を考えた方は久々にアタマがどうかしていていいと思います。
そういうわけで『ポトスライムの舟』ついでに、
宮城谷昌光の『三国志』もちらっと目を通しました。
「三国志」を小説化すること自体は、
キオスク文庫から北方謙三までピンキリ山盛りてんこ盛り、
なのですね。Webまで範疇に含めれば、それこそ星の数ほど小説が存在します。
ただ、宮城谷の『三国志』は、今までの宮城谷作品と比べると、という
意味で、ちょっと異色だと思います。
『天空の舟』『夏姫春秋』や『玉人』など、ざっとあげてみましても、
人物一人に焦点を絞って、彼らに思い入れをこめて書き上げるのが、
宮城谷の小説には多く、とてもウェットな文章です。
人物の読みが深く、味があります。
それを踏まえて、宮城谷『三国志』を見てみると、おや、と思います。
「三国志」はいわずと知れて非常に登場人物が多い物語なので、
誰か一人を主役に据えることが難しい。
ですが、今回は事件そのものを書きながらも、事件のキーマンを
その都度取り上げる、という手法で人を描いています。
この、人の選び方がとても巧妙です。
たとえば、222年ごろの濡須の戦、呉に魏の曹仁が攻めてきた戦では、
曹仁という目だつ武将側ではなく、呉の朱桓を中心に描いています。
一方で、同時代にこの地にいた、とても派手なエピソードを持つ
呉の周泰という武将がいますが、彼は史書での紹介だけで
さらっと流されています。
力点は朱桓と曹仁の用兵におけるやり取りに置かれているのです。
やりとり自体はほんのわずかなのですが、
「――いかなる名将も、老いれば、凡将となる。
朱桓は曹仁の行名と数万という兵力を恐れなかった。もっとも朱桓は
高慢な一面をもっている人で、攻め寄せてきた魏軍の帥将が曹操であっても、
おなじことを想ったであろう。」
こうした、宮城谷的、ともいえる人物評がとても活きています。
そして、この部分が光るのは、歴史の流れを丁寧に追いかける、ある意味
とても地味な作品の作り方を取っているからこそだと思うのです。
「三国志」の人物はどれも魅力的ですが、そのどこかに無理に肩入れせず、
人物中心ではなく歴史の事件に焦点を当てることで、時折はさまれる人物の
せりふや感覚が説得力を持つようになっている。
もともと人物一人を深く読み、生彩を持たせて動かす、宮城谷の得意技が
とても上手く生かされていると思います。
この作業(執筆よりもこちらの方がしっくり来ます)を観ていて思うのは、
「左伝」の作り方に似ているな、ということです。
「春秋」という中国の歴史書がありますが、左氏と言う人が、
これを歴史順に追いかけながら、面白いエピソードを取り上げ、
文章にした書物が「春秋左氏伝」です。ざっと紹介すると。
宮城谷『三国志』の作業は、彼の作業とよく似ている気がします。
小説と言う形でつないではいても、歴史を追いかける部分はとても作業的ですし、
一方で先の引用部分では、書物から読み取った性格を立体的にするため
作家の主観を存分に使っています。
「歴史小説」ではなく、「半歴史書」というほうが、
もしかしたらこの『三国志』が示す新しい形なのかも、とちょっと思いました。
明日から近畿方面に4日ほど高飛びするので、更新が停止します。わっほう。
ちょうど先ほど、面倒な課題も終わったので心おぎなく往ってきます。
ひとりで。
わっほう~。
まあそうした寂しんぼな事情はともかくとして、
ここんところの文芸春秋は歴史小説の連載がとっても豪華ですね。
『昭和天皇』の後に『三国志』です。
この連載の順を考えた方は久々にアタマがどうかしていていいと思います。
そういうわけで『ポトスライムの舟』ついでに、
宮城谷昌光の『三国志』もちらっと目を通しました。
「三国志」を小説化すること自体は、
キオスク文庫から北方謙三までピンキリ山盛りてんこ盛り、
なのですね。Webまで範疇に含めれば、それこそ星の数ほど小説が存在します。
ただ、宮城谷の『三国志』は、今までの宮城谷作品と比べると、という
意味で、ちょっと異色だと思います。
『天空の舟』『夏姫春秋』や『玉人』など、ざっとあげてみましても、
人物一人に焦点を絞って、彼らに思い入れをこめて書き上げるのが、
宮城谷の小説には多く、とてもウェットな文章です。
人物の読みが深く、味があります。
それを踏まえて、宮城谷『三国志』を見てみると、おや、と思います。
「三国志」はいわずと知れて非常に登場人物が多い物語なので、
誰か一人を主役に据えることが難しい。
ですが、今回は事件そのものを書きながらも、事件のキーマンを
その都度取り上げる、という手法で人を描いています。
この、人の選び方がとても巧妙です。
たとえば、222年ごろの濡須の戦、呉に魏の曹仁が攻めてきた戦では、
曹仁という目だつ武将側ではなく、呉の朱桓を中心に描いています。
一方で、同時代にこの地にいた、とても派手なエピソードを持つ
呉の周泰という武将がいますが、彼は史書での紹介だけで
さらっと流されています。
力点は朱桓と曹仁の用兵におけるやり取りに置かれているのです。
やりとり自体はほんのわずかなのですが、
「――いかなる名将も、老いれば、凡将となる。
朱桓は曹仁の行名と数万という兵力を恐れなかった。もっとも朱桓は
高慢な一面をもっている人で、攻め寄せてきた魏軍の帥将が曹操であっても、
おなじことを想ったであろう。」
こうした、宮城谷的、ともいえる人物評がとても活きています。
そして、この部分が光るのは、歴史の流れを丁寧に追いかける、ある意味
とても地味な作品の作り方を取っているからこそだと思うのです。
「三国志」の人物はどれも魅力的ですが、そのどこかに無理に肩入れせず、
人物中心ではなく歴史の事件に焦点を当てることで、時折はさまれる人物の
せりふや感覚が説得力を持つようになっている。
もともと人物一人を深く読み、生彩を持たせて動かす、宮城谷の得意技が
とても上手く生かされていると思います。
この作業(執筆よりもこちらの方がしっくり来ます)を観ていて思うのは、
「左伝」の作り方に似ているな、ということです。
「春秋」という中国の歴史書がありますが、左氏と言う人が、
これを歴史順に追いかけながら、面白いエピソードを取り上げ、
文章にした書物が「春秋左氏伝」です。ざっと紹介すると。
宮城谷『三国志』の作業は、彼の作業とよく似ている気がします。
小説と言う形でつないではいても、歴史を追いかける部分はとても作業的ですし、
一方で先の引用部分では、書物から読み取った性格を立体的にするため
作家の主観を存分に使っています。
「歴史小説」ではなく、「半歴史書」というほうが、
もしかしたらこの『三国志』が示す新しい形なのかも、とちょっと思いました。
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