えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

津村記久子「ポトスライムの舟」読了

2009年02月14日 | コラム
今回はコラムでお送りします。

:文芸春秋「ポトスライムの舟」 津村記久子作 2009年


:技術にあたえられた小説賞

 ここのところ続けて、女性が文学の賞を総なめにしている。でもきちんと作品を出すことを続けられてなお、評価を受け続けられているのはどうやら糸山秋子だけな気配で、ただ文章に卓越した人だけが日に日に増加するいっぽうだ。女の人は文章が得意なのは、実はあたりまえのことなのだとしんから思う。

 今年の受賞者津村記久子もやっぱり、経歴を見たら文学部だった。文章がととのっているのは当然で、しばらく社会人を味わっていた8年間でブラッシュアップした社会への感覚をそのまま上手いこと文章に乗せたらこうした小説が出来るのだと思う。世界旅行とポトスライムの鉢ふたつを基点にめぐる日常も、長瀬という主人公にも、周りの人々も、名前だけがやけに古めかしい他は平凡だ。ただし、平凡であって、人物の書き込みが平坦だというわけではない。たとえば、
『自転車のライトが、ひったくり出没注意と書かれた看板を照らす。(中略)ナガセはただ、自転車のライトは、前輪が回転する力だけで転倒しているからすごいな、わたしもそのぐらいの燃費になれないもんか、などと考える。』

 こうした、ふっとしたところで出てくる主人公長瀬の感覚が、自然に文中で差し挟まれるところに、津村記久子と言う人のたくみなところ、というかちゃっかりしている価値観を描ける視線の広範さがよく現れていると思う。磨かれた観察眼をはっきりと自覚した上で書いた、技巧の上では見事と言うべきだろう。
 
 ただ、根本的にこの人の文章は五感と言うものがまったく無いのがネックである。ひたすらの事実の列挙で探る情景は、明朝体なのに点字のように、読者を盲目に閉じ込めてしまうのだ。あざやかに浮かび上がる、何かしらの背景と言うものさしはさまれていない、人間に限定した視線の狭さはたぶん、女性作家なら誰でも得意な部分だと思う。だから、やりとりの巧緻こそ確かに精密なのだが、それ以上はあっぷあっぷで浮かび上がってこないことが寂しい。(805文字)


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