先ず横軸から御説明致しますが、これが先にある訳ではなく寧ろ最後の調整要素です。文章の話題ですが、実際には文章ではなく想念のリズムと考えて下さい。言葉を仲介する為に読み手に拠って受け取り方は千差万別となる。そこに作家の姿勢が現われます。小中学生や一般の方々を読者層と仮想し現代俗語を多用する作家や、戦後ひらがな多用として読み易くする出版業界が多数派です。逆に想起不可能な古語表現を時代劇の格調と勘違いする作家も多いものです。
ひらがな多用には、決定的な欠陥があります。先ず意義ある漢字の想念が消える。現実には、ずるずるべったりの羅列から想念を思い浮かべる行為は、漢字を読むより疲れます。これに慣らされると、創造の思考能力が低下し記号文化の論理思考、詰まりコンピューターの様な1+1=2という計算思考に堕してしまいます。この弊害を御説明すると一冊の本になってしまうので、論点を横軸のリズムに戻します。
音楽にはイン・テンポ(単一リズム)とテンポ・ルバート(変則リズム)があります。ピアノでは、左手をイン・テンポ、右手はテンポ・ルバートで弾く特殊技術がある。文学の場合は一見複雑ですが、慣れると簡単です。単語毎、行や文節単位、章の移行で想念のスピードが異なります。禅物語とかアクションの物質的速度の違いではありません。寧ろ逆になる事が多くあります。言葉の背後の想念には独自のリズムがあるゆえ、それをしっかりと捉える事です。確実な練習法があります。出来った作品を音読で繰り返すのです。その背景には、音韻や切れ字の素養も重要です。音韻や切れ字の修練としては、歴史的な名人の朗読や古典落語をお聴きになる事をお勧め致します。
歌舞伎などは、日本が世界に誇るべき綜合藝術であり、シェークスピアも敵わないでしょう。一即多を描き切るからとも云える。残念な事に、外国の方々は表層技巧を褒め称えます。歴史の結晶であり、幼少時から修練を積む歌舞伎役者や清元、新内などの至芸は、作家として学ぶ点が多々あります。陰音階の「間」は、クラシック音楽とは微妙に異なります。個人的には、短編時代劇の場合に歌舞伎の名演奏や中村吉右衛門の舞台録音などを聴きながら執筆する事があります。中国の胡弓や、インドネシアのガムランなどにも、独特の間とずれがあります。
初学者にも分かり易い例を出しましょう。少年少女諸君は、何でもいいからリズムを設定するのです。五七五でも五韻律でも序破急でもジャズの三連符やアフター・ビートでも、漫才のぼけと突っ込みでも良い。間違ってもいいから、そのリズムで言葉の連関から生じるうねりを連鎖思考の波に乗せれば良いのです。究極の表現は、言葉を超えた想念のリズムと云えるでしょう。これが出来ると、読者の深層心理にまで響きます。可笑しみのある文章が書ければ、既に名人の域と云えます。ギャグや駄洒落に慣れるのは危険です。それ程までに、本ものの笑いは難しいものです。
書きながら、自然と作家独自のリズムが生じます。ひらがなはイン・テンポ、漢字はテンポ・ルバート、地の文はイン・テンポ、会話をテンポ・ルバートとするなど数々の技巧があります。「ルビなしの漢字」「読者に読めない造語」なども、深層心理に残るサブリミナル効果が生じ、意図的にリズムを遅くする効用もあります。わざとひらがなにすると、すっと流れる事も、逆にもたもた渋滞する事もあります。読書といっても肉体的には視覚反応が先にある。意識上、読者は「読む行為」だと思っています。曖昧な表現は、イメージとして意識下に残ります。それらのリズムを組み合わせながら、話し手の個性や状況に応じて話し方を変えるとスピード感が出たり、逆に主題に関わる決め台詞はゆったりとしたリズムで重厚に表現出来ます。それを逆にするケースも多々あります。要は感性を磨く作業なのです。
先に「最後の調整要素」と御説明しましたが「書き上げた作品を捨て去る創作行為」が一番重要です。「無言の間」が完璧なリズムの奥義とも云えるでしょう。百枚分の想念を一行や小さな空間に集約出来る。娯楽小説でも同様です。「間」という技巧は、読者が論理的に理解する類の想念ではありません。数々の思念が谷底に突き落とされる感覚です。ところが、その瞬間多くのモチーフが泉の如く溢れ出す。西洋論理風に云えば、中核意識を刺激するサブリミナル効果の手法です。その「間」こそ、読者の創造の世界であり覚醒となる要なのです。
文体技術でいえば、説明しない部分、沈黙表現にそれまでの想念が集約されます。そう難しい事はありません。百枚程度の原稿を、句読点の位置まで丸暗記して総体を整える感覚があれば誰にでも出来ます。僕は寝る前に「今夜は、夢の中でこの部分を精査しよう」と決めてぐっすり眠り、次の夜は続きから始めます。詩人や小説家とはそういう修行を経るものですが、慣れると総体を捉えながら文章が自然と出て来る様になる。別な観点でいえば、作品の総体概念を掴み瑣末な詳細と余計な表現を捨てる感性を磨けば良いのです。わずか一言の単語、一行の詩が、作品総体の牽引力となる事もあります。
悪い例としては、最近の映画技術にカメラの動きを早くしたり遅くしたりするカメラ・ワークがあります。視覚が誤魔化され麻痺した上に、感性も判断も狂います。読者の思考行為を無視したやり方です。本当のリズムは、止まった画像の中にさえ確として存在する。小津安二郎監督の作品を御覧になれば、カメラ・ワークには「間を表現する」という基本技巧のある事が分かります。ジョン・フォードも、キャプラも、タルコフスキーも、チャップリンも皆同じです。が、どんな藝術にも例外はあります。オーソン・ウエルズが「F for フェイク」で、転換するカメラ・ワーク藝術を見事に表現しました。同等の完璧な間合いが、アル・パチーノ監督の「リチャード三世」にも見られます。それはごく限られた天才だけに赦される特殊技術であり、安易な模倣は失敗します。ウエルズ氏もパチーノ氏も、捨て方と間の感覚が完璧なのです。映画を観終わって、彼等が捨てたであろう膨大なフィルムの量を思うと溜め息が出ます。予算オーバーに間違いありません。その点、紙切れ相手の作家や詩人は気楽なものです。
「音楽で云うCHORD」と「言葉の絶対性」を合体させる技巧も重要です。物理的な速度ではなく、想念が別な宇宙へと移る感覚ですが、物語の底辺に流れる基調を変化させてゆきます。想念の明暗や強弱、速度や奥行き全てに関わりますが、音楽から学んだ方が分かり易いでしょう。ギターの名曲「アルハンブラ宮殿の想い出」をお聞きになれば、成る程と御理解頂けるかと思います。
ひらがな多用には、決定的な欠陥があります。先ず意義ある漢字の想念が消える。現実には、ずるずるべったりの羅列から想念を思い浮かべる行為は、漢字を読むより疲れます。これに慣らされると、創造の思考能力が低下し記号文化の論理思考、詰まりコンピューターの様な1+1=2という計算思考に堕してしまいます。この弊害を御説明すると一冊の本になってしまうので、論点を横軸のリズムに戻します。
音楽にはイン・テンポ(単一リズム)とテンポ・ルバート(変則リズム)があります。ピアノでは、左手をイン・テンポ、右手はテンポ・ルバートで弾く特殊技術がある。文学の場合は一見複雑ですが、慣れると簡単です。単語毎、行や文節単位、章の移行で想念のスピードが異なります。禅物語とかアクションの物質的速度の違いではありません。寧ろ逆になる事が多くあります。言葉の背後の想念には独自のリズムがあるゆえ、それをしっかりと捉える事です。確実な練習法があります。出来った作品を音読で繰り返すのです。その背景には、音韻や切れ字の素養も重要です。音韻や切れ字の修練としては、歴史的な名人の朗読や古典落語をお聴きになる事をお勧め致します。
歌舞伎などは、日本が世界に誇るべき綜合藝術であり、シェークスピアも敵わないでしょう。一即多を描き切るからとも云える。残念な事に、外国の方々は表層技巧を褒め称えます。歴史の結晶であり、幼少時から修練を積む歌舞伎役者や清元、新内などの至芸は、作家として学ぶ点が多々あります。陰音階の「間」は、クラシック音楽とは微妙に異なります。個人的には、短編時代劇の場合に歌舞伎の名演奏や中村吉右衛門の舞台録音などを聴きながら執筆する事があります。中国の胡弓や、インドネシアのガムランなどにも、独特の間とずれがあります。
初学者にも分かり易い例を出しましょう。少年少女諸君は、何でもいいからリズムを設定するのです。五七五でも五韻律でも序破急でもジャズの三連符やアフター・ビートでも、漫才のぼけと突っ込みでも良い。間違ってもいいから、そのリズムで言葉の連関から生じるうねりを連鎖思考の波に乗せれば良いのです。究極の表現は、言葉を超えた想念のリズムと云えるでしょう。これが出来ると、読者の深層心理にまで響きます。可笑しみのある文章が書ければ、既に名人の域と云えます。ギャグや駄洒落に慣れるのは危険です。それ程までに、本ものの笑いは難しいものです。
書きながら、自然と作家独自のリズムが生じます。ひらがなはイン・テンポ、漢字はテンポ・ルバート、地の文はイン・テンポ、会話をテンポ・ルバートとするなど数々の技巧があります。「ルビなしの漢字」「読者に読めない造語」なども、深層心理に残るサブリミナル効果が生じ、意図的にリズムを遅くする効用もあります。わざとひらがなにすると、すっと流れる事も、逆にもたもた渋滞する事もあります。読書といっても肉体的には視覚反応が先にある。意識上、読者は「読む行為」だと思っています。曖昧な表現は、イメージとして意識下に残ります。それらのリズムを組み合わせながら、話し手の個性や状況に応じて話し方を変えるとスピード感が出たり、逆に主題に関わる決め台詞はゆったりとしたリズムで重厚に表現出来ます。それを逆にするケースも多々あります。要は感性を磨く作業なのです。
先に「最後の調整要素」と御説明しましたが「書き上げた作品を捨て去る創作行為」が一番重要です。「無言の間」が完璧なリズムの奥義とも云えるでしょう。百枚分の想念を一行や小さな空間に集約出来る。娯楽小説でも同様です。「間」という技巧は、読者が論理的に理解する類の想念ではありません。数々の思念が谷底に突き落とされる感覚です。ところが、その瞬間多くのモチーフが泉の如く溢れ出す。西洋論理風に云えば、中核意識を刺激するサブリミナル効果の手法です。その「間」こそ、読者の創造の世界であり覚醒となる要なのです。
文体技術でいえば、説明しない部分、沈黙表現にそれまでの想念が集約されます。そう難しい事はありません。百枚程度の原稿を、句読点の位置まで丸暗記して総体を整える感覚があれば誰にでも出来ます。僕は寝る前に「今夜は、夢の中でこの部分を精査しよう」と決めてぐっすり眠り、次の夜は続きから始めます。詩人や小説家とはそういう修行を経るものですが、慣れると総体を捉えながら文章が自然と出て来る様になる。別な観点でいえば、作品の総体概念を掴み瑣末な詳細と余計な表現を捨てる感性を磨けば良いのです。わずか一言の単語、一行の詩が、作品総体の牽引力となる事もあります。
悪い例としては、最近の映画技術にカメラの動きを早くしたり遅くしたりするカメラ・ワークがあります。視覚が誤魔化され麻痺した上に、感性も判断も狂います。読者の思考行為を無視したやり方です。本当のリズムは、止まった画像の中にさえ確として存在する。小津安二郎監督の作品を御覧になれば、カメラ・ワークには「間を表現する」という基本技巧のある事が分かります。ジョン・フォードも、キャプラも、タルコフスキーも、チャップリンも皆同じです。が、どんな藝術にも例外はあります。オーソン・ウエルズが「F for フェイク」で、転換するカメラ・ワーク藝術を見事に表現しました。同等の完璧な間合いが、アル・パチーノ監督の「リチャード三世」にも見られます。それはごく限られた天才だけに赦される特殊技術であり、安易な模倣は失敗します。ウエルズ氏もパチーノ氏も、捨て方と間の感覚が完璧なのです。映画を観終わって、彼等が捨てたであろう膨大なフィルムの量を思うと溜め息が出ます。予算オーバーに間違いありません。その点、紙切れ相手の作家や詩人は気楽なものです。
「音楽で云うCHORD」と「言葉の絶対性」を合体させる技巧も重要です。物理的な速度ではなく、想念が別な宇宙へと移る感覚ですが、物語の底辺に流れる基調を変化させてゆきます。想念の明暗や強弱、速度や奥行き全てに関わりますが、音楽から学んだ方が分かり易いでしょう。ギターの名曲「アルハンブラ宮殿の想い出」をお聞きになれば、成る程と御理解頂けるかと思います。
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