有縁寺院梵鐘供養
5月15日(月)11時
上野彰義隊第百五十回忌墓前法要の供養に
上野の山に梵鐘が鳴ります。
徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜公の「無血開城」の決断により
江戸の町が無傷で残り、
現在の東京があります。
佛教各宗派が打ち鳴らす梵鐘に一打一打の音は、
上野戦争の多数の犠牲者への鎮魂であるとともに
明治維新から現代 そして未来へと
平和を願いつづける誓いの響きです。
主催 日蓮宗東京都北部宗務所
彰義隊
大政奉還後に朝敵とされた十五代将軍徳川慶喜公の助命嘆願を目的に
一橋藩主時代の側近らを中心に彰義隊がうまれた。
旧幕府より江戸の治安維持を命じられた彰義隊士と東征軍(新政府軍)との小競り合いが続いた。
慶喜公は水戸徳川家に移る際、
新政府を憚って彰義隊の随行を許さなかったので、
彰義隊は東叡山寛永寺山主の輪王寺宮公現法親王を警固する名目で上野に残留した。
新政府の参謀大村益次郎は、東征軍の威信を見せつけるねらいで閏5月15日に、
西郷隆盛の前線指揮のもと上野総攻撃を仕掛けた。
人数と武器に勝る東征軍の勝利で上野戦争は半日で終わった。
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野ざらしにされた彰義隊の遺体
その悲惨さをみかねた三ノ輪円通寺の住職・佛磨らにより
現上野彰義隊墓所において隊士の遺体は荼毘にふされた。
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上野の山を代表するかのような「西郷隆盛像」
南を向き 堂々と建っているが…
その後方
木立に囲まれ ひっそりと佇む『彰義隊墓所』
150年前の 1868年5月15日
降りしきる雨の中
両者の間に戦が生じた
時代の流れ
それぞれの志の違いが
悲惨な戦を生んだ
今
彰義隊士を偲び 法要が行われている
舞楽が奉納され
日蓮宗宗務総長・小林順光僧正を大導師に
読経が 上野の山に 集う者の心に響く
徳川慶喜公筆「撰法華経」が伝供され
徳川十八代・徳川恒孝氏も焼香
梵鐘が 上野の山に鳴り響く
合掌
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