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何で読んだか忘れてしまいましたが、藤沢周平は織田信長があまり好きでなかったらしい。たしか残虐に過ぎると嫌っていたのではなかったかと思います。一方で、世の中には織田信長の先進性・開明性を高く評価する立場から描かれた小説もたくさんあるようです。戦国大名の人物評価などというと、なんだか床屋政談のようなものですが、徳川時代には信長は「性残忍にして」という評価だったのが、明治期に鉄砲の三段撃ちや集団戦法などの合理性・決断力、天皇を復活させた点などが傑物と評価されるようになったらしく、このあたりは明治維新の影響というか、皇国史観の影響なのかもしれません。司馬遼太郎の『国盗り物語』などは、清濁併せ持った人物として描かれていますが、この中に徳富蘇峰の影響を指摘する意見もあるようです。
では、藤沢周平の信長嫌いは、作家個人の資質の違いによるものだったのか。もしかすると、長年にわたり酒井家が君臨した鶴岡では、明治維新にもかかわらず、徳川時代の人物評価が底流として流れていたのかもしれないと想像したりします。『論語』等の読み方にも荘内藩独特のものがあったようですが、これも明治維新で別の読み方が権威づけられただけのことかもしれず、かつては荘内藩的な読み方が正統だったのかもしれません。藤沢周平の作家としての資質の中には、そうした庄内人の底流があったと考えることもできます。さて、本当はどうだったのだろう?
では、藤沢周平の信長嫌いは、作家個人の資質の違いによるものだったのか。もしかすると、長年にわたり酒井家が君臨した鶴岡では、明治維新にもかかわらず、徳川時代の人物評価が底流として流れていたのかもしれないと想像したりします。『論語』等の読み方にも荘内藩独特のものがあったようですが、これも明治維新で別の読み方が権威づけられただけのことかもしれず、かつては荘内藩的な読み方が正統だったのかもしれません。藤沢周平の作家としての資質の中には、そうした庄内人の底流があったと考えることもできます。さて、本当はどうだったのだろう?
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