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水のように風のように「永遠の巫女」多嘉良和枝のダンス・パフォーマンスは越境する!

2017-02-11 11:52:37 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他

(多嘉良カナが50年前に和枝のために用意していた舞踊衣裳をはじめて身につけたという!)

金井喜久子生誕110年記念公演の録画映像を昨夜見せていただいた。明治時代に生まれた金井喜久子の作曲作品が散りばめられた歌曲の中で際立ったのが多嘉良和枝の舞踊だった!

宮古島市での公演の1週間前、浦添の某ホールでのリハを見せていただき、写真を撮り、映像も録画した。その時、物凄いテンションが伝わってきた。即興に近い形で一つの世界が歌曲の中で像を結ぶ舞踊家の存在に、息を呑んだ。古典舞踊、雑踊り、近代以降の創作舞踊を含め、多嘉良和枝の身体はそれらを基軸にしながら、なおかつ東京で必死に取り組んだ現代バレーやジャズ、さらにヨーロッパを放浪し、メキシコまで足を運び見て、体験してきた舞踊が細胞となって彼女の身体と精神に取り入れられたエキスが結晶となっているのである。

Transcultural (Relating to or involving more than one culture; cross-cultural)トランスカルチュラル、越境舞踊の沖縄の粋を極めたものが彼女のダンスだという結論に至る。

音楽ディレクターのTさんが2月5日の公演を録画した映像を見て驚いた!動態の瑞々しいダンスに目が引き付けられた。リハで見た舞踊の数倍も密度の高いしかも「水のように風のように永遠の巫女として踊る多嘉良和枝の姿」があった。NHKも収録していたようで、彼女のダンスはすでに映像で流れたと聞いた。日頃テレビをほとんど見ないので、見た方々からやはり驚きの声が伝わってきたとお聞きした。

去年科研研究+博士論文の関係で多嘉良和枝さんに始めてお会いして以来、氏の生の舞踊は一度だけ2015年11月にベッテルハイム教会のホールで見せていただいた。しかしソロのまさに伝統と現代の融合したコンテンポラリーダンスを始めて見た驚きがあった。「これは世界に通用する紛れもなく沖縄を代表するダンスだ」というのが第一の印象である。伝統と現代の融合、止揚されたエキスが籠められた舞踊である。まさにコンテンポラリー・オキナワンダンスとして定義していい舞踊である。

アメリカ留学中に見たコンテンポラリーダンスはソロでポーランドのダンサーが1時間、四季を踊ったりしていた。昨今は、地べたを這うようなダンスなど、人間があらゆる生物の同胞であることを意識させるものが登場している。地霊のような舞踏ともニュアンスが異なる。

多嘉良和枝の踊りには、舞踏とも異なる沖縄の舞踊の根にある信仰が昇華された形、信仰と土着の庶民の感性が融合されたものが見て取れた。祈り、超越した力(畏怖すべき存在)へ、そして祖霊へ、森羅万象への祈り(太陽や地球への祈り)、地域集団の人々の安寧の祈り、祈りが踊りの初源の形としてある。しかし単に白衣の単衣を身につけて神女の模倣をするのが創造[舞踊]の場の祈りではない。そして彼女は空手の達人である。剛の空手ではない動態の柔らかい空手の剛毅さと柔軟さが彼女の水のような風のようなたおやかさを生み出しているようだ。

多嘉良和枝さんの踊りはそれらの初源の形を越えているのである。どこがそうなのか?それは今年必ず実現することになる彼女のソロのダイナミックなダンス公演が実証してみせることになるだろう。ジプシーの踊り、メキシコインディアンの踊り、台湾原住民の踊りなど、彼女の人生の中で知覚した総ての事象が踊りの中に結晶となって飛び出していく(くる)そのモメントに立ち会えることはカオスの世界の中に光る雫の一滴でありえようか。その雫の放つ光を受け止めることができる稀有な時は沖縄パフォーミング・アーツの画期的な歴史モメントになるに違いない。←多嘉良和枝が若かりし頃極めた芸の再現を見たいと思っている!彼女の才能はまだ満開を得ず現在に至っていることが惜しまれる!

 余談:実は沖縄の女性芸能者について調べていると、270年余続いた遊里・遊郭の女性たちを対象化せざるを得なかった。そのシステムの中で多くの女性たちが少女時代から性的対象でありながらかつ芸能者でもあった歴史があった。1672年から1945年まで、遊里の女性たちが、琉球・沖縄に実存した。戦後は旅館、料亭の形態でそれが続いていき、アメリカ世はAサインバーやクラブが盛んになり、料亭を凌いでいった。復帰後に本土のビジネス形態としてソープなどが入ってきた沖縄である。それは現在に続く。基地の島沖縄の母子家庭は多い。生計を維持するために、頑張る女性たちの姿がある。表層と深層、表と裏の世界の境目に日常があり、その日常の中のシュールさ(不条理)もある。芸能や表現はそれらを止揚(しよう、独: aufheben、アウフヘーベンする力だといえよう。

嘘と虚構、現実の時間の河の中に生きているゆえに、嘘や虚構が現実を凌ぐときがある。空白の時間の虚構性があるのか、どうか、持続するエネルギー、身体の構築がありえる。そこに虚構が入るとき、それでもリアリティはそれを越境することがありえるのか、今、関心を持っている。嘘は嘘を重ねることによって真実になるのだろうか。泥水を呑んで真実を生きてきたリアリティーもある。生きるとは例えば日夜多くの男達への性のサービスによって日々の糧を得てきた数多の女たちがいる。あるいはかつての詰みジュリのように金を持つ男に依存し、優雅に過ごすことが可能な人生もある。人がどう生きてきたか、その痕跡は身体に、表情に表れる。いかに生きるか、人はそれぞれの究極のあるものと向き合って時の河を泳いでいるのだと言えるのかもしれない。何かを突き詰める旅には真実と言う名の哀しみ・失望も時に伴うものだ。真実とは何か?常に試されている。これはリアリティーと創造・想像の間にありつづける問いである。

きらびやかな女優のリアリティーがシモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir、1908年1月9日 - 1986年4月14日)【フランスの作家、哲学者。 サルトルの事実上の妻。サルトルの実存主義に加担する 】が『第二の性』に書いたように、ギリシャ時代のヘタイラの分身であり続ける要因は2000年以上たった現在でも続いている。人間の属性がデジタル時代でも変わらない所以であろうか。

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このエッセイをブログで書いた時、わたしは多嘉良和枝さんの履歴について詳細を知らなかった。彼女へのインタビューに基づいて書いたのが上のエッセイだ。それは書き直す必要がある。その後妹さんの大城幸子さん(11月6日逝去)から彼女が一度も外遊したことがないことを教えていただき、わたしの多嘉良和枝さんに対する視点は変わらざるを得なかった。しかし、舞踊家、ダンサーとしての多嘉良和枝の力量は並外れていると評価している。「もったいない方」だ。ご自分の内的な葛藤や美を存分に作品として開花させてほしかった!幸子さんはひたすらお姉さまの成功を支えてきたと話していた。しかし、幸子さんの思いがお姉さまには十分に伝わらなかったようで、残念。

幸子さんの聞き取りはすべてデータとして残っている。それをもとに幸子さんのオーラル・ヒストリーはまとめる予定である。(2022年11月28日記)

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