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≪前にもご紹介した書ですが、紅型の表紙が素敵です!≫
演劇を追いかけてきた者として、基軸になる琉球音楽(古典や民謡)が弱いことを痛切に感じてきたが、お箏もなまかじり、歌・三線もなまかじりだったので、仲村さんからのお電話は一番の弱点に光がさしたような気がしました。近世から近代、現代へと至る琉球・沖縄の女性芸能者を見据える視線の先に音楽の専門家の仲村さんがいました。古典音楽のボイス・トレーナーとして実績を踏まれてきた方で、声帯について医学部の先生と共同で研究もされています。古典音楽を最近は女性たちが多くたしなむようになったとのお話を伺って、驚きました。女性たちがこれまで男性の領域だとされた古典音楽を追求しているのです。そして近世、近代を見据えてみると、優れた古典音楽の女性唱者たちが実在した琉球・沖縄でした。
近世においても女性の名前はつる、かめ、うし、思樽、乙鶴、かな、などなど、全く姓も定かではないような扱いです。士族の女性たちの名前は系譜には見えますが、無系の場合、名前の記録もありません。お墓の位牌の女性たちの名前はどうなっているのでしょうか?そうした慣例の中で、志堅原比屋が『球陽』に登場するのは画期的と言えるのでしょう。彼女は古典を弾いていたのです。遊郭でー。最も位牌やお墓の制度も17世紀以降に整備されていったのですね。王府内に系図座ができるのが1689年です。
表の正史から見えない、芸能の担い手が遊里・遊郭には大勢いたのです。19世紀でもジュリ何千と言われた琉球の遊里は『遊び』『歓待』『文化サロン』だったわけですが、そこで多くのジュリの女性たちが芸能を担っていたのです。それは廃藩置県以降の近代でも変わりませんでした。王侯貴族や薩摩の在番一行、ユカッチュクラス、裕福な薩摩商人などが、日常からの解放空間をそこで過ごしていたわけですが(日常でもあった)、そこでは歌舞音曲が命薬だったのですね。女性芸能者が多く存在したわけです。近代において、彼女たちの名前が顔が写真の登場と共に、多く表に出てきました。近世においても彼女たちの美しい姿は無視しようがなく、絵画に描写されています。
近代の女性芸能者を掘っているのですが、仲村さんの実証的なご研究は、つまり近代の唱者の音源を科学的に分析されている論稿は近未来において実証的な書籍として登場することになりますね。仲村さんのご研究の深まりを期待しているところです。
わたしの方は通史的に女性たちの芸能の継承を明らかにすることになります。そして今日、多嘉良カナさんの養女で、実演家として、唱者として、創作舞踊において独特な世界を提示されている和枝さんにお会いしました。とてもいいお話しができました。感謝です!お話しの中身をここでUPするのは遠慮しておきます。論稿の中で生かしたいと思います。
疎外され莫迦にされ、性的オブジェクトとして見なされ、かつすぐれた芸能者であり、王子に愛され、貴族階層の妾になり(ヘタイラのように)かつ商才にもたけ、在番の現地妻として羽振りも良かった女性たちがいたのですね。琉球を代表する美女たちがいたのです。ディオニュソスの館には愛のカオスのさまざまな拡散・融合・美・階層の無化・止揚、などなどがまたあったのですね。もちろん、美しいものの裏には醜もまとわりつきます。しかし蓋をしてしまいたいもの≪醜≫はまた美を孕んでもいますね。「綺麗は汚い。汚いは綺麗」かのシェイクスピアがいみじくも言い切った「Fair is foul. Foul is fair」の世界です。二律背反する世界がありますね。
仲村善信さん 多嘉良和枝さん 全身全霊で芸術創造に取り組む方々の迫力と集中力に圧倒されます。
Macbeth 転載です。謝!
Summary of Act 1, Scene 1: The witches plan their meeting with Macbeth.
Thunder and lightning. Enter three Witches:
In the play as a whole, people are tossed about by forces that they cannot control, and so it is in the opening scene. The witches, blown by the storms of nature and war, swirl in, then out. As soon as we see them, they are on their way out again, and the first one is asking, When shall we three meet again? / In thunder, lightning, or in rain?" (1.1.1-2).
They will meet when "the battle's lost and won" (1.1.4). Note the "and." It's not when the battle is lost or won. If someone wins, someone also loses; it doesn't really matter to the witches, who don't take sides with people, only against them.
The first witch asks where they will meet, and the other two tell her that it will be upon the "heath," a barren, windswept place, in order to meet Macbeth. Then they're off, called by their familiar spirits, one of which inhabits a grey cat, and another of which lives in a toad.
As they leave, they chant a witchy chant: "Fair is foul, and foul is fair: / Hover through the fog and filthy air" (1.1.11-12). As creatures of the night and the devil, they like whatever is "foul" and hate the "fair." So they will "hover" in the fog, and in the dust and dirt of battle, waiting for the chance to do evil.
カントのアンチノミー(二律背反) |
アンチノミー(二律背反)に関するカントの議論は、理性概念としての理念(イデア)を論じるときに人間が陥りやすい罠について、その原因とそれが生じる必然性のようなものについて論じたものである。先に取り上げた誤謬推論や神の存在証明にまつわる議論と並んで、カント哲学のハイライトともいうべき部分である。 二律背反とは、同一の事柄について、ふたつの矛盾・対立する命題が同時に成立する事態をさしていう論理学の用語である。論理学においては、それはありえない事態を意味している。ところが人間の作り出した理念をめぐっては、このありえないことが生じる。それはなぜか。このことを論じたのがカントのアンチノミーを巡る議論なのである。 カントは二律背反表として四組のアンチノミーをあげている。 第一のアンチノミー:世界は時間的に端緒を持ち、空間的に限界を持つ、即ち有限である(定立命題)、世界は時間的に端緒を持たず、空間的に限界を持たない、すなわち無限である(反定立命題)。 第二のアンチノミー:世界は究極の構成要素としての単純な実体から構成されている(定立命題)、世界には単純な実体は存在せず、構成要素はどこまでも分割可能である(反定立命題) 第三のアンチノミー:自然法則に基づいた必然的な因果関係のほかに、人間の自由に基づいた因果関係も存在する(定立命題)、自由に基づいた因果関係は存在せず、自然法則に基づいた因果関係だけが存在する(反定立命題)。 第四のアンチノミーは少しわかりづらいが、簡単にいえば、神は存在するという定立命題と、神は存在しないという反定立命題との対立である。 伝統的な論理学によれば、相互に矛盾しあう命題は、同時に真理であることはできず、一方が真なら、他方は偽であるはずだ。ところが、この四つのアンチノミーの議論は、対立しあう二つの命題が、ともに真であることを主張するのである、。 どのような理屈でそうなるのか、カントはそれぞれのアンチノミーについて、ひとつづつ検討している。ここでは、第一のアンチノミーのうちの、空間を巡るものについての、カントの議論を紹介しておこう。 世界は時間的に端緒を持つ、即ち有限であるというのが定立命題、世界は時間的に端緒を持たず、したがって無限であるというのが反定立命題である。これらがいづれも真理を主張するのは、どのような理屈によってか。 カントは、一方の命題の正当性を、他方の命題に潜む矛盾を明らかにすることで証明する方法(背理法)を取っている。つまり、定立命題はその正統性を反定立命題の非正統性を指摘することによって証明し、反定立命題は、その正統性を定立命題の非正統性を指摘することによって証明しようとするわけだ。この証明方法は、他のアンチノミーにおいても共通している。 まず、定立命題。反定立命題が言うように世界に端緒がないとしたら、現在の世界が生まれるまでには無限の時間が経過していることになる。「ということは、世界において物が継起する状態の無限の系列がすでに過ぎ去ったことになる。しかし、系列が無限であるということは、継起するものの総合によっては決して完結することがないということである。だから世界の系列が無限に過ぎ去っているということは不可能である。こうして、世界に端緒があることは、世界が現実に存在することの必然的な条件だということになる」(中山元訳、以下同じ)なにやら屁理屈のように聞こえるが、カントは大まじめなのだ。 反定立命題。定立命題がいうように世界には端緒があったとしたら、それ以前には世界の存在しない「空虚な時間が流れていたに違いない。しかし空虚な時間においては、ある事態が生起することはできない」それ故、「世界の内部では、多数の事物の系列が始まることができるが、世界そのものは端緒を持たない。 このように、この一対の命題は、それぞれが正統性を主張している。しかし、もしどちらにも正統性があることを理性が認めるとしたら、それは二枚舌を使っているようなものだ。同時に有限でありながらかつ無限であることは、論理上ナンセンスだからだ。 それ故、このアンチノミーには、どこかに誤謬が潜んでいる、とカントはいう。カントはその誤謬を、二通りの方法で暴いている。ひとつは形式論理的な無理を指摘する方法、もう一つは人間の理性の本質に着目した指摘である。 この対立は一見して矛盾対当のような印象を与える。矛盾対当とは、片方が真であればもう片方は偽であるような対立関係である。しかし対立する関係にはこのほか、反対対当というものがある。これは、両方が真であることはできないが、両方が偽であることは可能な対立である。カントは、この第一のアンチノミーを、矛盾対当ではなく反対対当であるとし、両方とも偽の命題なのだということによって、このアンチノミーを解消してしまうのである。 対立関係にはまた、両方とも真でありうるものがある。カントはそれを小反対対当といった。そうしたうえで、四対のアンチノミーのうち、第一と第二は反対対当、第三と第四は小反対対当であるとして、これら四つのアンチノミーがは、理性の誤謬による産物なのだというのである。 では何故、理性はこのような誤謬に陥るのか。それは、先に誤謬推論のところで指摘したのと同じような過ちを、理性が犯すからだとカントは言う。しかしカントにとって、こうした誤謬は理性にとっては避けがたいものなのである。 世界の時間的な端緒と言い、空間的な限界と言い、それらは直感によってとらえられるものではなく、あくまでも理性による推論の産物である。その推論の産物に過ぎないものが、あたかも客観的な実在として存在するように考える、ここに誤謬の原因がひそんでいるのだとカントは言うわけなのだ。我々にとって世界とは、あくまでも現象としてあらわれる限りでのものにすぎない。それをあたかも、現象を超越した物自体としてとらえるところに、そもそもの問題の端緒がある、というわけである。 ところで、カントにおいては、アンチノミー論は理性の否定的な活動を示すものであったが、それを理性の肯定的な活動と捉えた思想家がいる。ヘーゲルである。ヘーゲルの弁証法は、カントのアンチノミー論を踏まえたものなのである。 日本語への翻訳の過程で、カントとヘーゲルの言葉遣いは殆ど共通性が感じられないものとなってしまっているが、彼等は基本的な概念に関して全く同じ言葉を使っている。たとえばヘーゲルの弁証法も、カントの弁証論も、どちらもドイツ語ではディアレクティックである。ディアレクティックとは、ギリシャ語由来の言葉で、「ふたつの異なった言明」を意味する。それをカントは「二律背反」と関連付け、ヘーゲルは同じコインの裏表のような関係としてとらえたわけだ。 このように、ヘーゲルの思想はカントの思想と深くかかわっている。カントのアンチノミーにおける定立~反定立の関係を、ヘーゲルは即自~対自の関係に置き換え、そこから弁証法の壮大な体系を構築したのである。 |