志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

『花風』は前近代から写実的な光景があったということですね!

2016-05-18 18:56:16 | ジュリ(遊女)の諸相:科研課題

 (雑踊りというより女踊りですね!近代の鳥羽口で誕生しているのだけれどもどうも本花風の歌詞はあれは士族の婦人でありえません。美らジュリです!この写真は近代の『女形』で人気のあった沖縄芝居役者儀保松男です!)

見落としていました。
本花風=ジュリ小風はつまり『琉歌百控』の中に収録されていて、『屋嘉比朝寄工工四』の中には入っていないのです。1775年には誕生していなかったのです。尾類小の尾類の漢字は廃藩置県前後の頃に出てきたものです。おそらく当時の沖縄のインテリ層(士族)がこの漢字をもってきたのです。書言葉が近代とともにせり出してきました。明治26年に『琉球新報』が発行され、学校教育が始まっていましたから、文字が一般大衆のものになっていったのです。そこから視覚的イメージの尾類が出たのですね!

遊廓の女性たちは王府時代から踊っていたのです。歌・三線をエンタテイナーとして担っていたのです。舞妓=踊妓として存在していたのですね!従来のコンセプトを変える必要があります。遊廓で芸能が豊かに花開いていたのです!王府時代からー。日々のハレの場はそこにあったのです。

1663年ごろ湛水親方は仲島のジュリ思戸と親しくなり古典音曲が誕生していったのです!その系譜が現在まで続いている琉球音楽の世界は「魂をこふ」=男女の相聞歌が根にあると見ていますが、どうでしょう?十七八節は恋歌?鎮魂歌?歌の根っこにあるのは「魂をこふ」=恋歌ではないと、尊大になる系譜もあるのですね。古典の大家たちは辻に外妾をもっていたのです。歌に優れた方々ほど、遊里を庭にしたのかもしれませんね。

 池宮正治論文「雑踊り『花風』の背景」はいいね!-詞章と主題の変遷です!池宮さんは十七八節を恋の歌という説です。東恩納寛惇さんも外間守善さんも「恋歌」の解釈です。金武良仁さんなどは『鎮魂歌』の考えで氏が逝かれたときは辻で盛大に「十七八節」が斉唱されたのです!この厳粛さと遊廓での斉唱は矛盾する沖縄の琉楽の歴史かもしれませんね!

 王府時代に遊廓は芸能が盛んだったので、当然、花風は当時からありえた写実的光景であり、船旅を予祝する歌としてあったことも充分考えられます。美は遊里にあり、古典の大家はこぞって遊里で魂をこふ=男女の相聞歌に酔いしれたのですね。安室さん、池宮城さん、王侯貴族もです!

下のスケッチをみると「たおやかさ」は感じられません。色艶は後に付け加えられたのです!踊りは変節するのです!まず女踊りは男の芸としてみる必要があるのでしょう。それと遊里の舞妓=うどぃんぐゎの芸をどう見るかですね!伊波清子さんの踊りの凄さを、彼女の花風を真境名佳子さんが超えることはできませんでした!上江洲フミさんの「諸屯」を誰が超えたのでしょうか?現在の琉球舞踊は、紅型衣裳に負けているのかもしれませんね。


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