公平な政治システムのはずの民主主義ですが、いま、政治は公平ですか?
民主主義は機能していますか?
私は、民主主義にあえてフェアという言葉をつけなければならない状況になっていると感じています。「フェアな民主主義」を大田区から広げていきたいと思っています。
政治がフェアでない理由のひとつに、発言の機会の問題があります。
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少数意見の尊重とよくいわれますが、どういうことでしょう。
少数意見はなぜ、尊重されなければならないのでしょう。
少数意見を尊重するべきか否かを問われれば、誰もが、尊重すべきと答えるでしょう。
ところが、現実の意思決定の場=議会で少数意見は、必ずしも尊重されていません。
議会で活動していて、日本は『民主主義』というより、民主主義の中の『多数決主義』をとりいれているだけなのだなあ、とずっと感じてきました。
意見の中から選ぶ際の一つの方法が「多数決」ですが、発言の機会まで、「多数決」=数に応じて与えられるからです。
発言の機会が数に応じて与えられることの問題は、多数意見が有権者の声を代表している時には、あまり感じませんが、多数意見と有権者の声がかい離を始めたときを想像すると問題が見えてきます。
多数意見は、数に応じてたくさん発言できますので、その意見のいいところはたくさん発言できますが、悪いところはあまり発言しないのではないでしょうか。
ところが、少数意見は、自分の意見の良さを十分発言する機会も得られず、多数意見の問題点について指摘する時間も与えられません。それなのに、多数派からの批判がたくさん表に出てしまうこともあります。
しかも、発言の機会や方法は、多数派が決めた「ルール」で行われるため、少数意見が有権者の目にふれにくい形でしか発言の機会を与えられないことさえあります。
この発言の機会まで「多数決」になっている意思決定は、多数意見が誤った判断をした時、有権者の声とかい離を始めた時、それをなかなか修正したり、別の意見にしたりすることがしにくくなります。
少数意見が有権者の目にふれにくく、現状のどこが問題が、なぜ問題か、別の考え方、方法にどんなものがあるのか、知ることが難しいからです。
私たちは、多数派の意見を選びたいのではなく、たくさんの可能性の中から、「一番良いもの」を選びたいと思っています。
その一番良いものを選ぶ判断は、与えられる情報により違ってきます。
ただ、そのためには、決まったことしか書かないような馬鹿げた議事録ではなく、なされた発言内容もきちんと記録するような議事録と例えばそれが数年後に多数決案が上手くいかなかった場合に誰でも直ぐに取り出して再検証できるような文書管理が基本となります。森本・加計学園、自衛隊日報問題を起こすような日本政府の文書管理と呼べない様な文書扱いでは、本当の民主主義を実現することはできないでしょう。