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旧東海道ランニング「東海道走膝痛シ」・・・関宿~草津宿、その6(忍の気配する街道)

2016年08月20日 | 東海道走膝痛シ(旧東海道ランニング)
石部宿は聖武天皇時代の奈良時代から江戸時代まで鉱物の採掘が行われていた鉱山のあったところだが、写真左側の草茫々としたところの奥が石部金山跡である。

金山と言っても採ったのは銅、黄銅鉱である。
奈良の大仏の銅は、この鉱山のものも使われていて、大仏は純国産だ。
おまけの話だが、鎌倉の大仏は中国からもたらされた銭(銅貨)で造られたらしい。

そして、写真右側にJR草津線の線路が走っているのがわかるだろうか。



旧東海道は、これとは別に金山の周りを南側へ大きく廻って山の中を通っていく道(上道)がある。
線路脇の、自分が走っている道は下道というらしい。

実は下道の方が古い街道である。
そして、距離が短い。

だが、街道沿いの野洲川はよく氾濫したらしく、天和3(1683)年の洪水後、下道は禁制となり、代わりに上道が開かれたということだ。
それでも、禁制札が立てられても楽な近道である下道を通る人が多かったという。

俺もやっぱり楽な下道を走ったのだった。


名神高速道路の下をくぐる。


民家の軒先にあった何かの台車?
なんだろう?


この辺りは石部宿と草津宿の中間あたりで六地蔵村という地名なのだが、その由来となった曹洞宗「法界寺
無住の寺らしいが、境内は綺麗に清掃されていた。

昔、一本の木から6体の地蔵尊を刻んだ内の一体が、ここ法界寺に安置されたとのこと。
今は、国の重要文化財らしい。
他の5体は兵火で焼失したと伝えられている。


案内板には、
「法界寺の本尊である当像は、僧形の丸い顔で、半眼・閉口し、のう衣の端を右肩に懸け、偏衫と裳を着けて直立する。 現状では右手に錫杖、左手に宝珠を執る。・・・、ここの六地蔵の地名となった六体の地蔵像の一体であると伝わる。」
と書かれていた。

六地蔵を調べてみた。(ウィキペディアの地蔵菩薩より)

日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。像容は合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていない。

日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。中尊寺金色堂には、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに6体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である。



さて、京都にも真言宗で親鸞が生まれた法界寺という寺があって、その近くにも六地蔵駅があるのだ。
また、京都は実は六地蔵によって結界が作られ都が守られている。


「西陣にすんでます」より、京の六地蔵めぐりからコピペしました。)

その京の六地蔵については、平安時代に小野篁が1本の木から6体の地蔵尊を造って安置したことに因むとされていて、石部宿の六地蔵と同じ話だ。

六地蔵と法界寺には、なんらかの関係があるのか?

先ほどのウィキペディアの地蔵菩薩の中に次のような文章があった。

道祖神との関係

先に述べた「六地蔵」とは六道それぞれを守護する立場の地蔵尊であり、他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に多く建てられた。また道祖神信仰と結びつき、町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。これを本尊とする祭りとして地蔵盆がある。また道祖神のことをシャグジともいうことから、シャグジに将軍の字を当て、道祖神と習合した地蔵を将軍地蔵(勝軍とも書く)とも呼ぶようになった。


ということは、この六地蔵村には村を守る結界がつくられたのであろうか?


なんだか調べているうちに、結界だ、法界だという話になり、自分が陰陽師でも調べているような感じになった。
ここは、甲賀忍者の郷であり、陰陽師と忍者は深いかかわりがあるのだ。


有名な「和中散本舗」大角家

薬売りといえば、忍者だ・・・???

和中散(コトバンクによると)・・・
江戸時代の家庭用漢方薬。枇杷葉(びわよう)・桂枝(けいし)・辰砂(しんしゃ)・木香・甘草(かんぞう)などを調合した粉薬。暑気あたり・めまい・風邪などに服用。

この和中散という名は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を献じたところ、たちまち治ったので、家康から直々付けられた名前だとのこと。


和中散本舗看板

この屋敷の中に小堀遠州作という言い伝えがある池泉鑑賞式庭園があるのだ。
実は、今日の行程の中で見学することを一番楽しみにしていたものである。

だが、予約しないと見学ができなかった。
実に残念だ。






手原醤油 塩屋藤五郎と書かれた建物である。
会社として今でもあるようだが、どのような醤油なのか調べたけど判らなかった。



ここを子午線が通っているらしい。
だから、どうしたと思うのだが、・・・?

子午線は人間が考えた真北と真南を結んだ線だけど、イギリス・ロンドン郊外グリニッジのグリニッジ天文台にある0度の子午線以外は、あまり意味ないと思う。

0度の基準も本来どこでもいいんだが、昔はイギリスが大国だったし、天文学における功績と世界最先端の航海技術をもっていたから、そこになったんだと思う。



徐々に草津宿が近くなってきた。


足利義尚(あしかが よしひさ) 鈎(まがり)の陣跡
背後の土手のむこうは上鈎池である。



室町幕府第九代将軍足利義尚が構えた陣跡だ。

甲賀忍者がその存在を大きく認められたのは、長享元年(1487)におきた「鈎(まがり)の陣」の戦いである。
その詳細は次を見ていただきたい。→甲賀流忍術屋敷のHPより、「甲賀忍者の歴史

以下、甲賀忍者の虚実を探るより抜粋

甲賀忍者が名を上げたのは1487(長享元)年から始まった「鈎(まがり)の陣」だ。当時、南近江一帯で勢力を誇った六角氏を討伐すべく、時の将軍足利義尚は自ら大軍を率いて南近江に攻め入り、鈎(栗東市)に陣を敷いた。

 古くから六角氏と関係が深かった甲賀の土着武士団は六角氏側に立ち、義尚を迎え撃つ。将軍方の陣に煙を流し込み混乱させ、夜襲を繰り返すという戦い方や、山中でのゲリラ戦など独特の戦法を駆使し、義尚が陣中で亡くなるまで約3年間、戦い抜いた。




忍者の素早い走りとは程遠いヨロヨロ走りであるが、鈴鹿峠をこえてからは忍の気配を感じるランニングである。



陣跡の土手にあがって上鈎池を眺めた。

街の風景が池に映り、美しい。
ここは、沢山の水鳥がいてバードウォッチングのできる池らしいが、鳥の姿は発見できなかった。


その土手に、草が生い茂って、誰にも気づかれないであろうと思われる所に、なぜか小さな風車があった。
なんだ、コレ?

(つづく)

おまけ (暇な人はどうぞ)



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