<怪しい人身御供の伝説>}
なんだかんだと、己に文句を言いながら走り続け、俺は原、吉原地区に至った。
下の写真を見てほしい。
原駅方面に向かってとった線路だが、なんとストレートな!
踏切を越え、しばらくいくと奇妙な名前の神社があった。
六王神社という。
だが、この案内を読むと、とても奇妙な話だと思った。
要するに人身御供の話なのだが、・・・
1. 何故、地元の女性でなく、京都に旅する途中の女性(しかも巫女)が人柱になったのか?
2. 残りの6人の女性までもが、何故、後追い自殺をしたのか?
そう簡単に、人間は自殺するものではない。
3. ひとり、人柱になった女性だけが離れた場所に祀られている。
心情的に、7人を一緒にしてあげるのが普通なのではないか?
ボーっとしながらも、なぜか、頭の隅にこのことが引っ掛かった。
なんだか、犯罪の臭いがする気がした。
俺は、この神社の境内には入らなかった。
工事中みたいだったし、案内を読んだら、なんとなく、入るのが怖くなった。
自宅に戻り、さっそくネットで調べてみた。
案内に載っていた鈴川の阿字神社を調べてみたら、以下のくだりがあった。
参照・・・フジレキシより)
『駿河志料』に「古へ此三股淵に毎年往来の女子を捕へ、生贄に奉れり…」・・・
要するに、周辺の村人たちが、旧道沿いを旅する女子を毎年、拐かしていたのだ。
とても野蛮な習慣があったのである。
そして、他の6人は拐かしと、暴行の現場を見てしまい、国元に引き返すのではなく、ここまで逃走したというのが事実であって、ゆえに皆殺されてしまった、と俺はそう推理した。
案内板は、その犯罪的行為をオブラートに包んで書いてあったのだ。
だが、誰でも案内を注意深く読めばなんとなく変だと思うだろう。
とにかく、女性にとって、当時の旅はいかに危険だったかということの実例である。
その犠牲者になった悲劇の女子は毎年いたわけだが、このときは神に仕える巫女だったので、その祟りを恐れ、神社を立てたのではないだろうか?
また、謎の旅する巫女をネットで調べたら、その女子たちは渡り巫女という集団だったのではないか?と思った。
ウィキペディアによると
「巫女」から以下抜粋
---------------------------------
渡り巫女
渡り巫女(歩き巫女)は、祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女である。その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団で、猿楽の源流一つとされる。旅回りや定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、必ずしも流浪していたわけではないので後に寺社の「お抱え」となる集団もあり、男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていた。この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨をともにしたといわれる。また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいた。
---------------------------------
明治初期までこういう巫女さんはいたみたいである。
また、ウィキペディアで「人身御供」と調べると以下のように書かれていた。
以下、抜粋
静岡には、人身御供や人柱の伝説が多い。例として、富士吉原市の三股淵(みつまたふち)あるいは三俣淵(と表記される)、浮島沼の人身御供や磐田市の見附天神の人身御供がある。これらの生贄伝説は非常に有名で、民俗学者の中山太郎や神話学者の高木敏雄といった著名な学者らの著書でよく紹介されている。 ただし、本の中で語られる伝説はところどころ異なっている。 1967年5月15日に発行された「広報ふじ 010号」3頁では、三股淵の人身御供について触れている。三股淵の付近では毎年6月28日に祭りを行うが、人身御供を伴う祭りは12年毎に行う。これは大蛇の怒りを鎮め大難を防ぐために行うと書かれている。なお、人身御供となる者の条件、人身御供の儀式について、その詳細は書かれていないが、「東海道の伝説」関西通信社1964年、「史話と伝説」松尾書店1958年、「伝説富士物語」木内印刷合資会社1952年には、その詳細が書かれている。まず生贄となる者の条件は、15~16の少女で処女、「東海道の伝説」にのみ美女という条件が付加されている。また人身御供の儀式は、生贄に選ばれた少女が、生きたまま淵に投げ込まれるか、生贄自らの入水(じゅすい)の形を取ると書かれている。なお、中山太郎の日本巫女史大岡山書店1930年においても吉原の人身御供について語られている。内容は既述の三冊に書かれている内容とほぼ同じである。 また、相違点については、広報ふじ「ふじ 010号」3頁では人身御供を伴う祭が12年毎行われていると書かれているが、他の四誌については人身御供を伴う祭が年毎(毎年)行われていると書かれている点、「伝説富士物語」以外の四誌は、巫女が人身御供になるという点、人身御供を捧げる相手の名前が単なる大蛇ではなく、竜神である点、などである。 「東海道の伝説」においては竜神という名称以外に、生贄を捧げる相手が神であると明記されている。
---------------------------------
なんという、不思議な地域であることか。
白隠禅師の生まれ故郷かと思えば、怪しい人身御供の伝説がある。
霊峰富士山の影響なのであろうか?
(なんとなく、上九一色村を思い出してしまった。)
富士山はなにもみえない。
愛鷹(あしたか)神社というのがあったが、この鳥居の前に、ミニチュアの神社みたいなものが飾ってあった。
なんだろうか?
まるで鬼太郎ポストのようである。
ゲーム・ゲゲゲの鬼太郎in1997 OP
(鬼太郎ポストがでてきます。)
このミニチュアの神社であるが、ネットで調べたがわからなかった。
なんだか、とても気になる。
解る人がいたら、コメントください!
愛鷹(あしたか)神社というのは富士市に沢山あって、愛鷹信仰なるものがあるらしい。
また、富士山と富士市の間に愛鷹山という山がある。
愛鷹という名は、その山名からきたようだった。
端高⇒足高⇒愛鷹
(参照:愛鷹になるまで)
吉原あたりから、ウンザリした直線道ではなくなり、変化に富んでくる。
(つづく)
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下の写真を見てほしい。
原駅方面に向かってとった線路だが、なんとストレートな!
踏切を越え、しばらくいくと奇妙な名前の神社があった。
六王神社という。
だが、この案内を読むと、とても奇妙な話だと思った。
要するに人身御供の話なのだが、・・・
1. 何故、地元の女性でなく、京都に旅する途中の女性(しかも巫女)が人柱になったのか?
2. 残りの6人の女性までもが、何故、後追い自殺をしたのか?
そう簡単に、人間は自殺するものではない。
3. ひとり、人柱になった女性だけが離れた場所に祀られている。
心情的に、7人を一緒にしてあげるのが普通なのではないか?
ボーっとしながらも、なぜか、頭の隅にこのことが引っ掛かった。
なんだか、犯罪の臭いがする気がした。
俺は、この神社の境内には入らなかった。
工事中みたいだったし、案内を読んだら、なんとなく、入るのが怖くなった。
自宅に戻り、さっそくネットで調べてみた。
案内に載っていた鈴川の阿字神社を調べてみたら、以下のくだりがあった。
参照・・・フジレキシより)
『駿河志料』に「古へ此三股淵に毎年往来の女子を捕へ、生贄に奉れり…」・・・
要するに、周辺の村人たちが、旧道沿いを旅する女子を毎年、拐かしていたのだ。
とても野蛮な習慣があったのである。
そして、他の6人は拐かしと、暴行の現場を見てしまい、国元に引き返すのではなく、ここまで逃走したというのが事実であって、ゆえに皆殺されてしまった、と俺はそう推理した。
案内板は、その犯罪的行為をオブラートに包んで書いてあったのだ。
だが、誰でも案内を注意深く読めばなんとなく変だと思うだろう。
とにかく、女性にとって、当時の旅はいかに危険だったかということの実例である。
その犠牲者になった悲劇の女子は毎年いたわけだが、このときは神に仕える巫女だったので、その祟りを恐れ、神社を立てたのではないだろうか?
また、謎の旅する巫女をネットで調べたら、その女子たちは渡り巫女という集団だったのではないか?と思った。
ウィキペディアによると
「巫女」から以下抜粋
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渡り巫女
渡り巫女(歩き巫女)は、祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女である。その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団で、猿楽の源流一つとされる。旅回りや定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、必ずしも流浪していたわけではないので後に寺社の「お抱え」となる集団もあり、男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていた。この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨をともにしたといわれる。また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいた。
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明治初期までこういう巫女さんはいたみたいである。
また、ウィキペディアで「人身御供」と調べると以下のように書かれていた。
以下、抜粋
静岡には、人身御供や人柱の伝説が多い。例として、富士吉原市の三股淵(みつまたふち)あるいは三俣淵(と表記される)、浮島沼の人身御供や磐田市の見附天神の人身御供がある。これらの生贄伝説は非常に有名で、民俗学者の中山太郎や神話学者の高木敏雄といった著名な学者らの著書でよく紹介されている。 ただし、本の中で語られる伝説はところどころ異なっている。 1967年5月15日に発行された「広報ふじ 010号」3頁では、三股淵の人身御供について触れている。三股淵の付近では毎年6月28日に祭りを行うが、人身御供を伴う祭りは12年毎に行う。これは大蛇の怒りを鎮め大難を防ぐために行うと書かれている。なお、人身御供となる者の条件、人身御供の儀式について、その詳細は書かれていないが、「東海道の伝説」関西通信社1964年、「史話と伝説」松尾書店1958年、「伝説富士物語」木内印刷合資会社1952年には、その詳細が書かれている。まず生贄となる者の条件は、15~16の少女で処女、「東海道の伝説」にのみ美女という条件が付加されている。また人身御供の儀式は、生贄に選ばれた少女が、生きたまま淵に投げ込まれるか、生贄自らの入水(じゅすい)の形を取ると書かれている。なお、中山太郎の日本巫女史大岡山書店1930年においても吉原の人身御供について語られている。内容は既述の三冊に書かれている内容とほぼ同じである。 また、相違点については、広報ふじ「ふじ 010号」3頁では人身御供を伴う祭が12年毎行われていると書かれているが、他の四誌については人身御供を伴う祭が年毎(毎年)行われていると書かれている点、「伝説富士物語」以外の四誌は、巫女が人身御供になるという点、人身御供を捧げる相手の名前が単なる大蛇ではなく、竜神である点、などである。 「東海道の伝説」においては竜神という名称以外に、生贄を捧げる相手が神であると明記されている。
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なんという、不思議な地域であることか。
白隠禅師の生まれ故郷かと思えば、怪しい人身御供の伝説がある。
霊峰富士山の影響なのであろうか?
(なんとなく、上九一色村を思い出してしまった。)
富士山はなにもみえない。
愛鷹(あしたか)神社というのがあったが、この鳥居の前に、ミニチュアの神社みたいなものが飾ってあった。
なんだろうか?
まるで鬼太郎ポストのようである。
ゲーム・ゲゲゲの鬼太郎in1997 OP
(鬼太郎ポストがでてきます。)
このミニチュアの神社であるが、ネットで調べたがわからなかった。
なんだか、とても気になる。
解る人がいたら、コメントください!
愛鷹(あしたか)神社というのは富士市に沢山あって、愛鷹信仰なるものがあるらしい。
また、富士山と富士市の間に愛鷹山という山がある。
愛鷹という名は、その山名からきたようだった。
端高⇒足高⇒愛鷹
(参照:愛鷹になるまで)
吉原あたりから、ウンザリした直線道ではなくなり、変化に富んでくる。
(つづく)
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