navikuma のブログ 陽炎のようにゆらめく景色のなかを走行中です。

ユーラシア大陸の端っこからのたわごとです。

サンカについて 3/3

2015年03月28日 | 雑記

サンカについて 続き、

最終章です。


サンカの人々の暮らし 7

テーマ:日本人のルーツ(581)

カテゴリ:カテゴリ未分類

その日の午后。私は利君を誘って、もう一度彼らの小屋を訪ねてみた。私の陽足はぬるく、風は爽やかで、何とも気持ちがいい。・・・・・丁度、三人は出かける用意がすんだ所だったのでよかったなと思った。私達には、おかまいなしに、せっせとさっきの白縄と山刀とをもって三人は何かしきりに話し合い乍ら足早に前を歩いていく。私達を無視するようなことは、いつものことだし、私達も平気な顔をして、後れない様に小走りについていくことにした。先頭の小父さんは、川岸の竹藪の処で止まった。小母さんと娘とは、すぐおいついて小父さんと並んで何か話している。しきりに側の娘は合点をしているが、何を話し合ったのかは、分からない。只、悪いことでないだけは、三人共うれしそうな顔をしていることでよく分かる。「何するじゃろう?」利君は、いつもの顔で少しおでこを前に出す様に小首を傾けて私に言ったが勿論私に分かろう筈はない。「そう、あわてんなよ。そのうちに分かるよ」と私は言ってみたが、さっきから私達のことを少し気にし出していたのか小父さんが、こっちを向いて言った。「坊んた。わしらん、ついて来よって何すんかな?」私は、ひどく怒られた気がして、黙って立ったが利君は平気な顔で答えた。
「おまいた、おらたァ、いろいろ違ったことすっで、見せてむらうつもりだが、いかんのかあ」
「べつに、いかんというのじゃないけど、わてら、どこまで行くか、分からんのに、ついたいて、怪我でもされちゃ困るで・・・・・」小父さんは、そう言ったきり、すぐ竹の幹によじ登り始めた。
「うまいもんだなあ。まるきし猿じゃ」利君が何かつづけて言おうとした時分には竹は、小父さんの体重で曲がって先が地に届きそうになった。小母さんが、さ、さ、さ、と飛んでいって、その竹の先を両手で掴むと跳ね上がらんように、ぎゅっと引っぱった。。娘がさっきの藤縄を小母さんに差し出す。すぐ小母さんは、その竹のかなり先の方にしっかり藤縄をしばりつける。その縄はぐんと引っぱると隣の竹の元の方にくくりつけられて、はね上がらんようになる。小父さんがするすると降りてきて、ひょいと飛び降りる。ついでに数歩離れた所の竹によじのぼって、さっきと同じことをして、竹を身体の目方で曲げる。小母さんがその先を掴んで引っぱる。娘が藤縄の、もう一本の方を差し出す。小父さんがそこに縛り付ける。小父さんが降りてくる。小母さんはひっぱっている藤綱と、さっき竹の根っこにしばりつけておいた、初めの藤縄とを取られないように、両手で引きつけていると、その間に小父さんは、細い竹を切って二本同じ様に三尺位のものにする。その端を藤縄でしばりつけると黙って小母さんに渡す。小母さんは、その立った竹の伸びにつられて、ひょいひょいと引っぱられて身体が浮き上がるようになるが、手を離さないで耐えておる。小父さんは、初めにしばっておいた藤縄の方を外して今の三尺竹のもう一方に巻きつけてしっかりしばりつける。
「あ、分った。ブランコつくりよった」利君が言って私の顔を見た。きっと、あの娘にブランコ作ってやったのだろう、と思うと、私はちいと羨ましい気がした。私だって利君だって家の外でブランコなんか作ったら叱られるにきまっとるし、第一、親がブランコ作りに先にたってやってくれるなどということは、絶対になかったことだから。
思った通りだった。小母さんが、まずブランコの初乗りだった。二度程腰と膝との屈伸で調子をとるとブラーンブラーンと竹薮の外側へ向かってふってみせる。娘は真剣な眼つきでじっとそれをみている。勢いがついた。・・・・・ざあっ、ざあっと音をたてて、この二本の竹が曲がって伸びてあっちの川岸にとどくと小母さんは、もう一度膝と腰とで舵をとって大ゆすりにゆすってから、ひょいと身体を縮めて、ひらりと向う岸に下り立った。両手は、まだブランコの藤縄を掴んだままだから竹が伸びる時、ふらっ、ふらっと引っぱられて泳ぐ様に動く・・・・・。「面白いことしよるなァ・・・・・」二人は、感心してしまった。第一。ブランコの作り方が面白い。あの縄の作り方が素晴らしい。あの腰と膝の使い方が、実にうまい。
「おらも乗せてくれるだろうか?」利君は、もう乗せてもらうつもりでいる。小母さんは二度三度、同じ様にして、この竹のしないを利用しては川の向うにいったり、その反動でこっちに来たりして、形を見せていたが、やがてこちら側に、ひらりと降りた。「・・・・・」娘が呼ばれて、そのブランコに乗った。脚も腰も小母さんのような具合に強くはないので、なかなか、このブランコは小母さんの様に上手には、揺れない。小母さんは何やら言いながら娘の脚もとから下っている細紐をつんと引っぱって娘の腰の力を助けてやる。「あの紐、いつ付けた?」「不思議な奴らだなァ・・・」利君と二人で感心している間に娘のブランコは、段々調子がついて川の上を向こうに届いたり、こっちに戻ったり何回でもぶらあん、ぶらあんと動く。そのうちに小母さんが、何か言ったなと思うと娘は腰を曲げて止り木にしゃがむ形になったが、向こうにつくと一緒にひょいと飛び下りた。うまい・・・ブランコは、こっち側にぶらんと、戻ってかなり高い所へ上ってしまった。だけど、小母さんの手の紐は、ちゃんと握られているので、どこか遠くへ行ってしまったりしない・・・。「ちぇっ。やってけつかる・・・・・」利君は、もうすっかり感心のしっぱなしだ。「これで、どうするずら・・・」私がそう思った時、小父さんと小母さんはパチパチ手を打ってから、万歳の形をして娘を褒めてやっていた。
「あ、そうだ。川渡りの仕方を教えたとこだよ・・」
やっぱり利君は、私よりも頭が良くて早く分かるようだ。「だけど、もう、あの娘あ、戻れんなっちゃうに・・・」私が心配をしてやると、今度は小父さんが乗っかって世話なしに、向う側にぴょんと渡る。娘を抱き上げて「きゃっ」「きゃっ」と言っているのは、きっと「上手に出来た」と褒めてやってるのだろうと私共には思えた。娘を乗せると、今度は小父さんは、向う側に残ってみている。
何度も何度も繰り返して、川渡りの方法を見せてくれたが「貸してやる」とも「乗ってみろ」とも遂に言わなかった。「坊。日い、暮れますっせ。
はよ。帰らんと叱られるで・・・・・」小父さんは向う岸から大きい声を出して私達を追払いかけた。もう少し見ていて、あの藤縄をどうして取ってくれるか。その縄どうするか。見たかったけれども大分急に薄暗くなりかけていることに気づいて二人はほんに名残惜しくも、その場を下って道路に出て来た。
あとの日に尋ねてみたが、この藤縄は、「折角努力して作ったものだから、もう一度水に浸けて、ほぐして糸のようにして幾晩もかかって「より糸」にして、小父さんのしている角帯のようなもんにするんだ」と小母さんは教えてくれた。

私は「教育の原点」というものを探したら、この「山窩の夫婦」のような「生活の実際」の中にみつかるのではないかと思って来た。この数年の後に、私が無官の大夫となる日が来る。そこで最初に手がけたいと思うのは「恵那地域の教育の原点等」であるが、それは、やはり、「原点」ともいうなれば、ここらにあると思えてならない。「行動」する、「労働」し、「労作」し、肉体を動かして「分る境地」におこうとした、「恵那の先人達の教育」は、やはりここを目指したものでは、なかったのか。いつぞや、芳兵衛先生は、その話をとても大切な話に聴いてくれたし、藤村老も、しきりに「いい話だ」と褒めてくれていた。
私も含めて、今時の教育の中に「共に行く」「共に生活して」「共に生き育つ」「共育」が無いのが悲しいことだと思うことから、残したい話の一つだ。(昭和四十八年六月十七日)

 

 

サンカの人々の暮らし 8

テーマ:日本人のルーツ(581)

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方言注
おーっそがい=おそろしい
二ッケ=肉桂
殺されるげな=殺されるそうだ
だちゃかん=駄目だ
子供んた=子供達
こきる、こいて=言っている、言って
おし=おまえ
こっちいも=ここらへも
もんとこいょって=者の所へ寄って
いっしょにとびやんか=一緒に飛ばないのか
遊んでばっかけつがって=遊んでばかりいやがって
もうて=まわって
坊んた=坊やたち
世話なしに=何の苦労もなく


三宅武夫   1903年~1990年
岐阜県の教育家。岐阜県師範学校を卒業後、
教師になる。1943年中津町立第二中学校
初代校長に就任。以後中津川市教育長などを歴任。著書『おらあ先生になる』ほか


家族単位で山の中や川辺で漂白の生活を送るサンカは、大自然を背景に親が子に自分の生活する姿を見せて生活している。教育者である作者の三宅武夫氏はサンカの家族に教育の理想を見たのだろう。その眼差しには優しさが溢れている。
三宅武夫は明治三十六年、岐阜県に生まれ、師範学校を卒業後地元の小学校に赴任、その後愛媛県の松山に転出している。この鞦韆(ぶらんこ)はその後に、生家に近い恵那郡の団子杉近くで目にしたサンカの家族のことを書いているが、この愛媛時代にもサンカを目撃してるという。
三宅氏が出版した『おらあ先生になる』という自伝の中にもその時の事が書かれているので、引用しておく。
                ※
その一つに、松山にいた時、担任の生徒を引率して、奉仕作業のためにと、市街の南を流れている石手の川原に行ったことがありました。そこには、ずいぶん沢山の天幕が張ってあってこの川原の右岸に、穴を掘って住んでいるらしく、竹細工をしている一群に逢ったことがあります。
『先生。ここにゃ、紀元二千年前からの人間がいますけ、気ぃつけにゃいけんぞな・・・・・巣に棲み、穴に住む人間が、かなり大勢いるのじゃけんな・・・・・』高橋という生徒がそう言ってきました。
なるほど、見るとかなりの人数です。それは、
明らかに、かつて私が子どもの頃に見た、あのボンスケといった、同類の人達であることがすぐわかりました。私は、その彼らの天幕の前まで行って、昔「鳳の草」(明智在)の小屋にいた三人の暮らしを思いながら、あの時小母さんが教えてくれた彼ら独特の文字だといった、あの符牒を書いて見せたのです。(中略)。記憶をたどってみますと、これはどうやら昭和十四年の夏のことです。
その後、彼らがどうなったのか、いつどこへ消えていったのか。それは知りませんが、その時の話の中に、今はその日その日の生活に、大分困っている話。いまに日本が戦争にでも突入すれば、その時はまっさきに志願して、軍人にしてもらい、天晴れ日本人になってしまいたいが、どこにいっても一般人、一般の子供迄が、冷たい仕打ちをして、自分たちを悲しませている。先生なら、その先生になる人々に私らだって人間だということをよく解るように話して聞かせ置いてほしいと言っていました。そして今、何とかして「溶け込み」をしたいと思い、この地に「居つきたい」と、それぞれ苦心している。と言っていました。
            ※
愛媛県師範では三宅氏は校長に生徒の五年間持ち上がりを要求し、県内の生徒宅を訪問して回るなど、たいへんに教育熱心な教師であったようだ。それはおよそ四十年近くも後の、このような後日談からも窺える。再び『おらあ先生になる』からの引用
            ※
それが昭和五十一年、私は、私の手記復刻版の『鞦韆(ぶらんこ)』という一冊を印刷してもらいましたので、当時教え子だった伊予路の校長たちに送りました。ところが、その中の三人もの校長から「私の学校のPTAの役員の中にそういう人びとがいますらい・・・・」と、教えてくれました。
・・・それは、あの時、「溶け込み」を考えていた人達の子孫じゃないでしょうか。あの頃から「溶け込み」をはじめたにしても、あの全部が、あの辺りだけに落ち着いたわけでもなでしょうから、いずれ、松山近郊から西は西宇和、東は遠く香川、徳島、南は高知、北は瀬戸内の島島から、中国路にかけて、じりじりと沈潜・定着していったのではないかと思うのです。
              ※
中国・四国地方のサンカの出自を考察させる一節である。そうして三宅氏はその後を学習研究会で回ったりした時でも、日本全国いろいろとその土地土地で興味深い観察をしている。特に、京都で成長した小学校の教え子の女性達に「道楽」という料亭で竹焼料理をふるまわれた時の書いている内容が興味深い。
            ※
その「一節の竹」の上側の割り口は、和紙で貼られていて、竹の底側は、すこし焦げていました。口取りが出て、お吸い物が出て、お酒が出て、その張り紙がはがれますと、この一節の中には、一杯詰められた様々な山海珍味が納まっていました。一番上に・・・・(中略)。その「知久屋喜」は、まさに、彼らの秘法による、石焼料理、桶料理、竹筒料理と、みな同じ類型の料理だと思いました。東は秋田、西は山口、南の高知、内海の鹿島、そしてこの京都の「知久屋喜」、それに故郷明智の、鳳の草の小母さんの「手料理」も、同じ手法だったと、今も思っています。
             ※
このように三宅氏はサンカに向けて様々なアングルからのアプローチを試みているのだが、やはり
「鞦韆」においての重要なテーマという「教育の原点」を「サンカの家族」に見出したということになるだろう。三宅氏は、彼らの生活の中にあった「子どもへの教育」が徹底した「行動中心教育」であるとし、その素晴らしさを「鞦韆」によって我々に伝えてくれている。
藤つるを取ってきて、それをぶらんこに作りあげてくまでのプロセス。そしてぶらんこが、出来上がってから親子三人で遊ぶ姿を見て、七十年近い昔、若かりし三宅氏は、共感と羨望の眼差しで三人の親子を見ていたに違いない。
それは次の言葉にも明らかだ。
              ※

私の周辺にいた多くの人々の中にあって彼らぐらい、強烈に私の「教育行動」に影響した集団は、少なかったという気がしてなりません。(中略)彼らのような「生活即教育」「遊び即生活」の「共育」をすすめる、そういうものを忘れたくありません。何としても「子ども自身が自らの行動を律する力」が、自ら育つためになくてはならないことと、私は思うのです。
             ※
三宅氏の著作の中には「そっとみんなが溶け込んでいてくれますようにと願うわけです」という一節がある。サンカを好奇の眼で見る、あるいは研究の対象としてのみ見ようとする試みの氾濫する中、サンカに向けられた氏の眼差しの温かさは、その人柄を反映していることを窺わせる。
“サンカ”へのオマージュとして「鞦韆」は文句なしに至高の存在だと言える。
最後に氏がサンカへの惜別の情を吐露した一節を引用しておわりにしたい。それはまさに、平成の現在“サンカ”という存在にロマンと憧れを持ってる、我々総てに共通する心情であるといえよう。
              ※
私の記録の中には、これら「消えていった人々を惜しむ」幾つかの記録がありますが、いつもこれを見る度に思いますのは「その後どうなったか、もうわからない」という惜別の情です。それでいて、イツの日にか、 まさに私の心の底深くに食いいって離れない、それらの人々の人柄、暮らしの実態、いささかの高ぶりもない親切、独特な語り。そしてその中にあった珍しい、それでいてまことに「平凡」な何でもない、しかも、またここになくてはならない「文化」「生活」「教育」の実態等々、回想するたびに、涙のながれるほど懐かしく、切実に感じるものがあるのです。彼らが一般人社会、周辺の人々の世界に溶け込んだとしても、どこかで、あの純粋だけは残していてほしいとそう思うのです。

極秘に伝承されてきた“サンカ文字” ・・・ 神代文字のひとつ?

http://blogs.yahoo.co.jp/milkmikky22/62991074.html

 

流浪の漂白民・サンカの謎

http://www.tanteifile.com/onryo/kaiki/2009/09/07_01/

 

三角 著 「山窩奇談(さんかきだん)」を読む

http://77422158.at.webry.info/201404/article_11.html

 

駕篭を売る人

http://old-view.logohit.main.jp/?cid=4

 

84; KAWADE・道の手帖『サンカ 幻の漂泊民を探して』2005年

http://blog.goo.ne.jp/usuaomidori/e/3baf0baa6af13d7e0cde48db3f3b7f7a

 

サンカ(山窩)社会と三角寛

http://blog.goo.ne.jp/wag18470/e/fe6aca951b7293e894b2b0de86da43e0


サンカ学の過去・現在、そしてこれから

http://www.dailymotion.com/video/xrgemp_%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AB%E5%AD%A6%E3%81%AE%E9%81%8E%E5%8E%BB-%E7%8F%BE%E5%9C%A8-%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89_creation

 



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