長内那由多のMovie Note

映画や海外ドラマのレビューを中心としたブログ

『生きる−LIVING』

2023-05-23 | 映画レビュー(い)

 1952年の黒澤明監督作『生きる』はかねてよりハリウッドリメイクの企画開発が続けられ、一時はトム・ハンクス主演というプロジェクトも存在したようだが、いずれも実現には至らなかった。事なかれ主義でお役所仕事を淡々とこなす壮年の男が、余命宣告を受けたことから人生を見つめ直し、残された僅かな時間に意味を持たせようと奔走していく…ハリウッドなら恥ずかしげもなくお涙頂戴のヒューマンドラマに仕立て上げられてしまう筋書きだが、敗戦間もない1952年に製作された黒澤版には惨禍を招いた“凡庸な悪”、人間の惰性や無関心に対しての明確な批評があった。

 2022年に英国でリメイクされた『生きる LIVING』は概ね黒澤版に準拠しているものの、一番の特徴は日系英国人のノーベル賞作家カズオ・イシグロが脚色を手掛けていることだ。自身の著作に対して小津安二郎や成瀬巳喜男からの影響を認めているイシグロは、簡素で洗練された哲学によって黒澤版より40分も短く『生きる』を語り直している。紳士でありたいとする主人公を通じて“英国紳士とは何か?”と問いかける本作は、イシグロの代表作にして1993年にはジェームズ・アイヴォリー監督、アンソニー・ホプキンス主演で映画化された名作『日の名残り』と相似形を成している。『日の名残り』でホプキンス演じたスティーヴンスは、主人に完璧に仕えることを生きがいとする執事。只々、使役し続けた彼は英国上流階級とナチス・ドイツの癒着を傍観し、その結果、戦火は招かれ、主人を失脚させてしまう(これらの歴史的背景は英国王室の内幕を描いたTVシリーズ『ザ・クラウン』にも詳しい)。年月が流れ、戦後、密かに想いを寄せていたメイド頭のミス・ケントンに会いに行くも、彼女には既に伴侶がいるのだった。わずか35歳で人生のままならなさ、寂寥を描いたイシグロの傑作に対し、『生きる LIVING』はかろうじて人生の黄昏時に間に合った男の物語である。おそらく黒澤版の主演志村喬の喋り方を引用しているであろうビル・ナイは、今にもかすれそうな声音で引き算に徹した枯淡の名演。彼の体現する英国紳士たるエレガンスこそイシグロが憧憬を抱き続けてきた姿ではないだろうか。偉大なる名優が本作で初のオスカーノミネートを獲得したことがファンとして喜ばしい。オリジナルで小田切みきが底抜けの屈託の無さで演じた若い娘に、リメイクでは『セックス・エデュケーション』の良心とも言えるエイミー・ルー・ウッドが好演していることも特筆しておきたい。

 黒澤版は後半の通夜のシーンが(くどくて)長く、メソッドの異なる性格俳優陣による演技合戦に豪放なヒューマニズムがあって楽しいが、イシグロはここを端正に切り上げると物語を次世代へと繋いでいる。ここに若くして老成した『日の名残り』のイシグロが、壮年に入ったからこその達観があるのではないか。黒澤映画のリメイクというよりも“カズオ・イシグロ作品”として語られるべき作品であり、新鋭オリバー・ハーマナス監督が撮影ジェイミー・D・ラムジーのカメラを得て、オールドスタイルの美しい作品に仕上げている。


『生きる LIVING』22・英
監督 オリバー・ハーマナス
出演 ビル・ナイ、エイミー・ルー・ウッド、アレックス・シャープ

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