ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

立ち止まって

2016-04-08 22:04:37 | 時事
 もう名刺など要らないのに、
パソコンで簡単に作成できたからと、
持ち歩いている。
 しかし、さほど使う機会はない。

 その名刺にある私の肩書きは、元小学校長でも、
某研究会顧問でもなく、『素浪人』とした。
 本当は、『竹光さえ持てぬ情けない素浪人』としたかったが、
長過ぎたので、自ら却下した。

 さて、その『素浪人』の暮らしぶりだが、
2年前に右肘の手術をし、以来、好きなゴルフができず、
そのうっぷんもあって、
ジョギングとマラソン大会参加を楽しみに、日々を送っている。

 しかし、それだけでは飽き足らず、
その上、これ以上老け込まないうちにと言った思いもあって、
やれドライブだ、読書だ、創作だ、四季折々の散策だ、
温泉だ、美食だ、山登りだ等々と、
次から次と楽しみを作り、今をおう歌している。
 さらには、いつか再び、お役に立てる機会があれば、
何かの力にと、思ったりもしている。

 そんな私だが、周辺にあるつい見逃してしまいそうな、
ちょっとした出来事に、立ち止まってしまうことがある。
 心が揺り動かされたいくつかを、
手当たり次第、列記してみる。


 <1>
 若い頃から朝日新聞を愛読している。
その理由の1つが、『天声人語』である。
 毎朝、それに目を通すのが習慣だ。

 その鋭い視点に、深く教えられることは、今も変わらないが、
それに加え、最近、同じ一面にある『折々のことば』にも、
よく目が止まる。
 鷲田清一さんの哲学的な思考が、
私には、とても新鮮なものに感じられる。

 3月下旬、そのコラムにこんな一文があった。

『教育においてもっとも大切なことは、すべて
 を意識化してはならぬということ、またそん
 なことはできぬと諦めること
                 福田恆存
   教育は「信頼が支配する領域」。見張る
  かのように警戒や不信の目で子どもを見る
  人は、子どものみならず、子どもに対する
  自分の態度をも信じていない。つまり、人
  のあいだで最初に立ち上がり最後まで残る
  「自然発生的なもの」を信じていない。教
  育は計算してどうこうなるものではないと
  評論家は言う。「教育・その本質」から。』

 これは、子どもに限ったことではないと思った。
人として成長する本質と言えるのではなかろうか。

『信頼が支配する領域』
『警戒や不信の目で見る人は…自分の態度をも信じていない。』
『計算してどうこうなるものではない。』
 同感と感動である。
人を育てることの真理を見事に言い当てていると思う。
心が熱くなった。

 時々、若い先生をはじめとした声に、
表立ってはいないものの、
パワハラかと思える言動を見る。

 そんな管理職の机上に、
この新聞の切り抜きを置いておきたいものだ。

 
 <2>
 プロ野球の人気選手だった人が、
覚せい剤の所持と使用で逮捕された。
 野球選手を夢見て、練習に励む子ども達を思うと、
残念でならない。

 その覚せい剤について、こんな新聞記事があった。

 『覚せい剤の成分メタンフェタミンは1893年、
薬学者の長井永義が合成に成功した。
第2次世界大戦中、日本はメタンフェタミンを、
欧州では別の覚せい剤成分アンフェタミンを兵士に与え、
士気高揚や恐怖心克服、疲労回復などを図った。』

 改めて、戦争の残酷さや悲惨さ、非人間性を知った思いがした。
今では、使用そのものが犯罪とされる薬物が、
正々堂々と兵士に与えられていた事実。

 そのねらいは、士気の高揚。
つまりは、戦闘、殺りくのやる気を高めるため、
そして、人の命のやり取りや破壊への恐怖心を、
克服するために使われたのである。

 新聞記事にはこんな記述もあった。
『使った瞬間、脳がクリアになり
何でもできるという万能感に支配される』。

 きっと、兵士たちはそんなニセの高揚感を持たされ、
戦場に立たされたのだろう。
 こんな犯罪が他にあるだろうか。

 強い憤り、そのやり場がないままでいる。


 <3>
 2月のニュースだ。
 JR登別駅で、乗客の荷物を無料で運ぶ、
ポーターサービスの実証実験が、始まったとあった。

 これは、外国人旅行者から、
大きな荷物を持って、改札口と駅ホームを結ぶ階段の昇降が、
大変だという声を受けてのことらしい。

 確かに、エレベーターを設置すれば、それで済むことだが、
今のJR北海道にはその力がないように思う。
 そこで、旧国鉄時代、上野駅や青函連絡船で活躍していた、
赤帽さんにヒントを得たのか、
荷物運びの助っ人、つまりはポーターサービスとなったのだろう。

 新聞記事によると、実証実験初日は、
『市職員と委託業者の6人が10本の特急に合わせて実施。
うち5人は普段は公共施設の除雪などをしている60~80代だ』とのこと。

 それを利用した『中国から夫婦で訪れた30代女性は
「中国ではないサービスで優しいですね。
でも、ポーターがお年寄りで頼むのが恥ずかしい」
と話した』そうである。

 外国人旅行者は、旅行したその時、その国で出会った人や物、
気候、風景を通して日本を知り、
それが日本のイメージとなるのである。
 それは、私たちが海外にいった場合も同じである。

 さて、60~80代のポーターを見て、
外国人は、日本の労働環境をどう受け止めただろうか。
 高齢になっても、元気に働く人たちがいる国と思っただろうか。
 いや、『頼むのが恥ずかしい。』の声は、
決してそんな風には見えていないように思う。。

 そうだ。誰に対しても
「あるがまま」、「ありのまま」でいいんだ。
 でも、それにしても、ポーターの年令について、
心にすき間風が・・・。それは、私だけ。


 <4>
 温泉大好き人間ではないが、
近くに気軽に入れる温泉があるのは嬉しい。
 今は、月に1、2回、右手のリハビリを理由に、
日帰り温泉へ行く。

 さて、最近テレビでは旅番組が頻繁である。
中でも、地元北海道のよさを取り上げたものに、
目が行ってしまう。
 それを見て、「今度、是非に」などと、
一人刺激を受けたりもしている。

 もう2、3年前になるだろうか。
道南・函館方面を紹介するものがあった。
 いわゆる旅人が、
さほど名の通ったところでない小さな港町や、
農漁村を訪ね歩くものだった。

 私も一度だけ行ったことがあるが、
函館から恵山にむかう道からの海岸風景が、
海と空の青さが一つになり、ひときわ綺麗に映し出されていた。

 番組では、旅人がふと立ち寄った港町の、
しかも、その町の人だけの共同温泉浴場を紹介した。

 海岸べりにあって、7、8人がやっとの
海に向かって、半分露天のような浴場だった。

 旅人が尋ねると、地元の年寄りは、
「お風呂は1つだけだ。」と言う。

 「すると、混浴ですか。」
「そうだよ。1つだもの。」
「それじゃ、みなさんご一緒に。」
「そうさ。」

 ビックリ顔の旅人に、
「何もだ。だって、小さい頃から一緒だもの。」
表情一つ変えずに言った。
 「そうですか。そうですか。」
旅人は、そう応じるのが精一杯。

 私も、旅人と同じ心境だった。
そんな大らかさは、私のどこにもないと思った。

 あの真っ青な大海原のもとでの暮らし、
だからこそ育つ感情なのだろう。
 そう理解することに決めた。




水芭蕉が咲いた(だて歴史の杜公園・野草園)
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« だての人名録 〔3〕 | トップ | シリーズ『届けたかったこと... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

時事」カテゴリの最新記事