毎週金曜日は、朝から机に向かう。
前日から、このブログのために思いを巡らせ、
そして、1日をつかい、パソコンのキーボードと試行錯誤をするのだ。
2週間前のその日も、朝食を済ませるとすぐ、
2階の自室の扉を閉めた。
この日は、すでに書きたいことが決まっていた。
それをどう文字にするかだった。
心を落ち着け、ノートパソコンの電源を入れた時だ。
下の階のリビングから、家内のいつもと違う声が飛んできた。
「ねえ! M先生、亡くなったよ。」
私には恩師と思える先生が2人いた。
その1人が、中学3年の担任・M先生だ。
返答につまった。
大きく深呼吸をしてから、階段を下りた。
リビングのテーブルに、新聞が広げてあった。
家内が紙面を指さした。『お悔やみ』欄だ。
そこに、M先生の名前が載っていた。
喪主は、奥様になっていた。
先生が逝去した事実を認めるしかなかった。
5月に恵庭の病院で、
長期入院している中学校時代からの友人・T君を見舞った。
(彼については、最後にもう一度記す。)
その時、M先生が癌らしいと聞いた。
しかし、5年前にお会いした先生は、腰を悪くしていたものの、
その表情や語り調には、覇気があった。
「M先生のことだ。きっと癌など、ものともしないだろう。」
私は、不安な気持ちを、勝手に吹き飛ばしていた。
あの時の、自分勝手な解釈と軽薄な期待感を悔いた。
こみ上げてくるものがあった。
それを、必死にこらえた。
次から次、先生から頂いた数々の教えが脳裏をめぐった。
このブログに、何回もM先生を記した。
中学3年の夏祭りの日に、父が母に手をあげるケンカをした。
それを見た私は混乱した。
一人で思い悩む日を送った。
そんな時、M先生が私に声をかけてくれた。
『M先生は、私の肩を抱えるようにして、
職員室の片隅につれていった。
二人で向きあうと、先生は穏やかな表情で私の目を見た。
「どうした。元気ないぞ。」「先生に、話してみないか。」
と、言った。
あのシーンが浮かんだ。
涙がこみ上げてきた。私は、それを必死にこらえた。
大切な父と母のことである。その両親のいさかいを、
言葉にすることなど、私には無理だった。
両親を辱めることなど、決してできないと思った。
私は、先生から目をそらし、
「何もありません。」と、小さくうつむいた。
「そうか。そうならいいんだ。」「元気、出しなよ。」
と、先生は私の両肩を、力強く握ってくれた。
「はい。」と少し湿った声でうなずき、
私は、深々と頭を下げて職員室を出た。
嬉しかった。
急に廊下の床がにじんだ。
何粒もの涙のしみが、廊下にできた。
一人ぼっちじゃないと思えた。
冷えていた心が、温かくなっていった。
ちゃんと見てくれている人がいた。
それだけで、勇気が湧いた。心強かった。
前を向こう。顔を上げて歩こうと思った。』
(15年6月のブログ『夏祭りの日に』抜粋)
教師にとって最も大切な子どもを見る目。
M先生のその目が、少年の私を救ってくれた。
中3のその体験が、その後の私の支えになった。
M先生の教えは、続く。
私を校内の弁論大会の弁士に推薦してくれた。
私は、その期待に応えようと頑張った。
それが、自信や自己主張などと無縁だった私を、
変えてくれた。
(15年7月のブログ『初めての岐路から』参照)
高3の時、進路について無関心だった私に、
教職の道へと背中を押してくれたのも、M先生だった。
(16年2月のブロク『背中を押してもらって』参照)
『中学生だった私から見て、
M先生の最大の武器は、先生ならではの話し方だった。
一つ一つの言葉、その言い回しは、
他の先生とは違い、すっと私に入ってきた。
分かりやすかったと言ってもいい。
あの頃、私の学級に、男子生徒の多くが注目する
『学級のマドンナ』がいた。
彼女は、中3になってすぐ転入してきた。
口数の少ない子だった。
その子がいると思うだけで、多感な男子は登校に心が弾んだ。
ところが、半年あまりで、突如転校することになった。
マドンナとの最後の日、
先生は私たち男子の気持ちを察したのか、
帰りのホームルームでこう話した。
「逢うは別れの初めなり。あのなぁ、昔の人はそう言って、
別れの悲しさや寂しさをこらえたんだ。
君たちも、今、それが分かるだろう。」
下校の道々、先生の言葉が、私の中を何度も巡った。
せつない気持ちを、コントロールするのに十分だった。
そんな体験がいくつもあったからだろう、
先生に勧められ、教職を志した時、
あの『しゃべり』方を、私も身に付けたいと思った。』
(16年7月のブログ『巧みなしゃべり方を ~教師の資質として』抜粋)
M先生は、教師としての私の目標になった。
そんな恩師が、逝ってしまった。
隣町での葬儀には、家内も同席してくれた。
会場の傍らに、生花を置かせてもらった。
「ワタル君、来てくれたのか。ありがとう。」
遺影が、やさしく語ってくれているようで・・・、
胸がつまった。
何度も目頭が熱くなった。
受付で頂いた『会葬御礼』の栞を開いてみた。
「大きな優しさをありがとう
深い愛情をありがとう」
そんなタイトルで、奥様の一文があった。
『夫は長年 教員として励んでおりました
小中学校の教壇に立ち 未来輝く子どもたちの
ために尽くす やり甲斐のある仕事です
そんな天職と同時に夫が現役時代に得た大切な
ものがもうひとつ 趣味のゴルフです 職場の
お仲間方とグループを作って日曜日は欠かさず
出かけていきました 家族で九州や東北など
旅行も何度かしましたが やはり一番はゴルフ
だったようで『僕はゴルフに行くからあなたは
お友達と旅行をしなさい」なんてつれないところも
あったものです ただそれがかえって居心地が
良く 快く好きなことをさせてくれたおかげで
私も沢山の思い出ができました
晩年になると庭に出る時間が増え 几帳面に草を
とって植木の手入れをしてと穏やかな時間を紡いで
おりました 夫が鳥のえさを用意していると
リスがそれを食べにくることがあり「ちび」と
名前をつけて夫が呼べば寄ってきてその様子を
見て二人で笑い合ったことも懐かしくて… 共に
過ごした日々を振り返ると幸せだったと実感し
涙がこぼれてしまいます
寂しいけれど みんなに優しかった夫のことです
これからもこちらを見守ってくれると信じて
います (後略)』
2度3度と読んだ。
M先生の人柄が、そのまま伝わってきた。
「大きな優しさ」と「深い愛情」、「几帳面」、
「みんなに優しかった」。
M先生にふさわし言葉の数々が、
悲しさに耐えていた私を救ってくれた。
さて、むすびになる。
M先生が、癌を患っているらしいことは、
5月に見舞った、長期入院中のT君から聞いた。
M先生の訃報を彼にも知らせようと携帯に電話した。
何度呼び出しても出ない。
仕方なく自宅に電話した。
すると、息子さんが電話に出た。
私は開口一番、説明した。
「お父さんの携帯に電話したんですけど、
中々出ないので、それでご自宅に電話しました。」
息子さんが、落ち着いた口調でそれに応じた言葉に、
その日2度目の衝撃を受けた。
「父は、今月9日、亡くなりました。
葬儀は、家族だけで・・・」。
彼のことは、つい最近『エッ!そんなことって』の題で、
このブログに書いた。
大切な友人の1人だ。
悲報に続く、悲報。
あれから2週間が過ぎた。
どれだけ時が過ぎようと、私の落胆はそのままである。
M先生 享年83歳。T君 享年69歳。
2人とも、まだまだこれからがあったのに・・・。
せつない。
秋真っ盛り サクラも
前日から、このブログのために思いを巡らせ、
そして、1日をつかい、パソコンのキーボードと試行錯誤をするのだ。
2週間前のその日も、朝食を済ませるとすぐ、
2階の自室の扉を閉めた。
この日は、すでに書きたいことが決まっていた。
それをどう文字にするかだった。
心を落ち着け、ノートパソコンの電源を入れた時だ。
下の階のリビングから、家内のいつもと違う声が飛んできた。
「ねえ! M先生、亡くなったよ。」
私には恩師と思える先生が2人いた。
その1人が、中学3年の担任・M先生だ。
返答につまった。
大きく深呼吸をしてから、階段を下りた。
リビングのテーブルに、新聞が広げてあった。
家内が紙面を指さした。『お悔やみ』欄だ。
そこに、M先生の名前が載っていた。
喪主は、奥様になっていた。
先生が逝去した事実を認めるしかなかった。
5月に恵庭の病院で、
長期入院している中学校時代からの友人・T君を見舞った。
(彼については、最後にもう一度記す。)
その時、M先生が癌らしいと聞いた。
しかし、5年前にお会いした先生は、腰を悪くしていたものの、
その表情や語り調には、覇気があった。
「M先生のことだ。きっと癌など、ものともしないだろう。」
私は、不安な気持ちを、勝手に吹き飛ばしていた。
あの時の、自分勝手な解釈と軽薄な期待感を悔いた。
こみ上げてくるものがあった。
それを、必死にこらえた。
次から次、先生から頂いた数々の教えが脳裏をめぐった。
このブログに、何回もM先生を記した。
中学3年の夏祭りの日に、父が母に手をあげるケンカをした。
それを見た私は混乱した。
一人で思い悩む日を送った。
そんな時、M先生が私に声をかけてくれた。
『M先生は、私の肩を抱えるようにして、
職員室の片隅につれていった。
二人で向きあうと、先生は穏やかな表情で私の目を見た。
「どうした。元気ないぞ。」「先生に、話してみないか。」
と、言った。
あのシーンが浮かんだ。
涙がこみ上げてきた。私は、それを必死にこらえた。
大切な父と母のことである。その両親のいさかいを、
言葉にすることなど、私には無理だった。
両親を辱めることなど、決してできないと思った。
私は、先生から目をそらし、
「何もありません。」と、小さくうつむいた。
「そうか。そうならいいんだ。」「元気、出しなよ。」
と、先生は私の両肩を、力強く握ってくれた。
「はい。」と少し湿った声でうなずき、
私は、深々と頭を下げて職員室を出た。
嬉しかった。
急に廊下の床がにじんだ。
何粒もの涙のしみが、廊下にできた。
一人ぼっちじゃないと思えた。
冷えていた心が、温かくなっていった。
ちゃんと見てくれている人がいた。
それだけで、勇気が湧いた。心強かった。
前を向こう。顔を上げて歩こうと思った。』
(15年6月のブログ『夏祭りの日に』抜粋)
教師にとって最も大切な子どもを見る目。
M先生のその目が、少年の私を救ってくれた。
中3のその体験が、その後の私の支えになった。
M先生の教えは、続く。
私を校内の弁論大会の弁士に推薦してくれた。
私は、その期待に応えようと頑張った。
それが、自信や自己主張などと無縁だった私を、
変えてくれた。
(15年7月のブログ『初めての岐路から』参照)
高3の時、進路について無関心だった私に、
教職の道へと背中を押してくれたのも、M先生だった。
(16年2月のブロク『背中を押してもらって』参照)
『中学生だった私から見て、
M先生の最大の武器は、先生ならではの話し方だった。
一つ一つの言葉、その言い回しは、
他の先生とは違い、すっと私に入ってきた。
分かりやすかったと言ってもいい。
あの頃、私の学級に、男子生徒の多くが注目する
『学級のマドンナ』がいた。
彼女は、中3になってすぐ転入してきた。
口数の少ない子だった。
その子がいると思うだけで、多感な男子は登校に心が弾んだ。
ところが、半年あまりで、突如転校することになった。
マドンナとの最後の日、
先生は私たち男子の気持ちを察したのか、
帰りのホームルームでこう話した。
「逢うは別れの初めなり。あのなぁ、昔の人はそう言って、
別れの悲しさや寂しさをこらえたんだ。
君たちも、今、それが分かるだろう。」
下校の道々、先生の言葉が、私の中を何度も巡った。
せつない気持ちを、コントロールするのに十分だった。
そんな体験がいくつもあったからだろう、
先生に勧められ、教職を志した時、
あの『しゃべり』方を、私も身に付けたいと思った。』
(16年7月のブログ『巧みなしゃべり方を ~教師の資質として』抜粋)
M先生は、教師としての私の目標になった。
そんな恩師が、逝ってしまった。
隣町での葬儀には、家内も同席してくれた。
会場の傍らに、生花を置かせてもらった。
「ワタル君、来てくれたのか。ありがとう。」
遺影が、やさしく語ってくれているようで・・・、
胸がつまった。
何度も目頭が熱くなった。
受付で頂いた『会葬御礼』の栞を開いてみた。
「大きな優しさをありがとう
深い愛情をありがとう」
そんなタイトルで、奥様の一文があった。
『夫は長年 教員として励んでおりました
小中学校の教壇に立ち 未来輝く子どもたちの
ために尽くす やり甲斐のある仕事です
そんな天職と同時に夫が現役時代に得た大切な
ものがもうひとつ 趣味のゴルフです 職場の
お仲間方とグループを作って日曜日は欠かさず
出かけていきました 家族で九州や東北など
旅行も何度かしましたが やはり一番はゴルフ
だったようで『僕はゴルフに行くからあなたは
お友達と旅行をしなさい」なんてつれないところも
あったものです ただそれがかえって居心地が
良く 快く好きなことをさせてくれたおかげで
私も沢山の思い出ができました
晩年になると庭に出る時間が増え 几帳面に草を
とって植木の手入れをしてと穏やかな時間を紡いで
おりました 夫が鳥のえさを用意していると
リスがそれを食べにくることがあり「ちび」と
名前をつけて夫が呼べば寄ってきてその様子を
見て二人で笑い合ったことも懐かしくて… 共に
過ごした日々を振り返ると幸せだったと実感し
涙がこぼれてしまいます
寂しいけれど みんなに優しかった夫のことです
これからもこちらを見守ってくれると信じて
います (後略)』
2度3度と読んだ。
M先生の人柄が、そのまま伝わってきた。
「大きな優しさ」と「深い愛情」、「几帳面」、
「みんなに優しかった」。
M先生にふさわし言葉の数々が、
悲しさに耐えていた私を救ってくれた。
さて、むすびになる。
M先生が、癌を患っているらしいことは、
5月に見舞った、長期入院中のT君から聞いた。
M先生の訃報を彼にも知らせようと携帯に電話した。
何度呼び出しても出ない。
仕方なく自宅に電話した。
すると、息子さんが電話に出た。
私は開口一番、説明した。
「お父さんの携帯に電話したんですけど、
中々出ないので、それでご自宅に電話しました。」
息子さんが、落ち着いた口調でそれに応じた言葉に、
その日2度目の衝撃を受けた。
「父は、今月9日、亡くなりました。
葬儀は、家族だけで・・・」。
彼のことは、つい最近『エッ!そんなことって』の題で、
このブログに書いた。
大切な友人の1人だ。
悲報に続く、悲報。
あれから2週間が過ぎた。
どれだけ時が過ぎようと、私の落胆はそのままである。
M先生 享年83歳。T君 享年69歳。
2人とも、まだまだこれからがあったのに・・・。
せつない。
秋真っ盛り サクラも
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