1945年7月15日、前日の空襲に続き室蘭市は、
アメリカ艦隊計13隻による艦砲射撃を受けた。
午前9時30分から10時30分までの1時間に、
1トン砲弾860発が打ち込まれた。
アメリカのねらいは、軍事工場であった製鉄所と製鋼所だった。
ところが、その社員が暮らす住宅地にまで砲弾は飛んできた。
死者485人のうち439人が、一般市民だった。
私は、戦後生まれであるが、家族は皆、その砲撃の渦中にいた。
まだ3歳にも満たない姉も、何故かその時の恐怖が脳裏にあると言う。
私は、幼い頃からくり返し、
その日の地獄絵のような様相を、父から聞かされた。
「爆撃が治まり、防空壕から出て真っ先に見たものは、
電線に宙づりになっていた血だらけの死体だった。
だが、それには頭も首も腕もなかった。」
「隣の防空壕は、跡形もなく吹き飛び、
逃げ込んだはずの人は1人もいなかった。
ただ静まりかえり不気味だった。」
小さな私の心は、そんな話を聞くたびに、
震えが止まらず、母にしがみついた。
話の終わりに、両親は、口をそろえて
「あんなことは、二度と絶対にあってはならない。」と言った。
私は、そんな両親からの体験談を通し、
戦争の恐怖を私自身に染みこませた。
しかし、『戦争を知らない子供たち』ではないが、
今や『戦争を知らない初老』である。
先日も、報道で知ったことであるが、
沖縄戦では、北海道出身の兵士が、
他県に比べて多数戦死しているとか。
その訳を、ある学者が、
「沖縄人と北海道人の命を楯にしたのではなかろうか。
それは本土の人間とは違うと言った考えがあったように思う。」
と話していた。
それを、簡単に鵜呑みにはできないが、
戦争の残虐性を改めて知らされた思いがした。
真実ならばと、大きな憤りも感じた。
そして、自己反省とともに、
戦争を知らない者として、70年前の惨劇を、
今後も機会ある毎に、心して学び続けなければと思った。
過去、身近にこんな事があり、心に刻んだ。
もう10年も前である。
今も続いているだろうが、
私が着任した東京都内の小学校では、
東京大空襲や太平洋戦争開戦の日あたりに、
平和についての行事が組まれていた。
当時、私が赴任していた学校でも、
『平和を考える集会』が計画されていた。
担当の先生が、校長の私に相談を持ちかけてきた。
私の学校は、東京大空襲で校舎が全焼し、
学校へと逃げ込んだ人々の多くが犠牲になった。
担当者は、「その惨状を子供たちに伝えたい。」
「この地域で、空襲体験をした方に、その様子を全校児童に話してもらいたい。」
と言うのである。
私は、その提案に賛成した。
担当者は、私に、語り手の依頼を託した。
私は、何のためらいもなく快諾した。
早速、地域の有力者Mさん宅を訪ねた。
そして、集会の主旨と具体的な計画を説明し、語り手捜しをお願いした。
Mさんは、「学校のお力になれるなら。」と引き受けてくれた。
それから半月、ヤキモキさせられたが、
集会の2日前、ようやく語り手が決まったと連絡があった。
集会の日に、現れたのは顔馴染みのお店のご主人Sさんだった。
下町特有の口調で、空襲の恐怖を全校児童に30分も話し続けてくれた。
「真っ黒な死体が、爆風で布きれのように、
いくつも転がっていった。」
「学校の玄関の床石には、焼けた死体の黒い跡が残り、
何年経っても目をそむけた。」
体験者でなければ語れないことが、次から次へと続いた。
翌日、お礼のため再びMさん宅を訪ねた。
そこで教えて頂いたことが、今も強く心を捉えている。
Mさんは、私からの語り手依頼を受けると早速、
数人の町会役員に集まってもらった。
そこで、語り手の人選をした。しかし、その人選が難航した。
それは、私には思いも寄らないことだった。
学校の周辺には、何人もの空襲体験者はいた。
しかし、
「Aさんは生きのびたものの、ご両親をなくしている。」
「Bさんもそうだ。」
「Cさんは、兄さんと妹さんを亡くした。」
「Dさんは、確かお祖母さんもお祖父さんも。」
「だから、きっと思い出したくはないだろう。」
「いや、思い出させるのは気の毒だ。」
「Eさんも、Fさんも、頼むわけにはいかない。」
こんな会話が、次から次へと続き、人選は苦慮したのだと言う。
そして、ようやく肉親には亡くなった方がいなくて、
空襲体験のあるSさんに頼むことができたのだった。
それまで私は、悲惨な体験であっても、
それを後世に伝えようと言う使命感があれば、
語り手は誰でもできると思っていた。
しかし、Mさん達の人選の苦慮から、
その体験から受けた苦しみの深さを教えられた。
そして、その傷みをそっと包む人々も知った。
私は、本当の『戦争を知らない』と赤面し、唇を噛んだ。
広島に原爆が投下され、70年。沢山の報道特集があった。
その中に、70年がたってはじめて体験を語った方がいた。
長年閉ざしていた思いの深さと、
どうしても伝えたいと言う思いの強さが、
空襲体験の語り手探しに苦慮したMさん達と重なった。
再び戦争という惨劇の重大な罪と苦悩をくり返してはいけないと思った。
そうだ。昨日の平和記念式典での広島市長の平和宣言が心にある。
『武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みの実現に
忍耐強く取り組むことこそが重要だ。』
と、述べ、
『憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を
世界へ広めることが求められる。』
と訴えている。
市長は式典後の記者会見で、こうも述べた。
「あえて『安保法制』という固有名詞を記述しなくても、
おのずと熟議してほしいという気持ちは伝えられる。」と。
『秋桜』が 咲き始めた
アメリカ艦隊計13隻による艦砲射撃を受けた。
午前9時30分から10時30分までの1時間に、
1トン砲弾860発が打ち込まれた。
アメリカのねらいは、軍事工場であった製鉄所と製鋼所だった。
ところが、その社員が暮らす住宅地にまで砲弾は飛んできた。
死者485人のうち439人が、一般市民だった。
私は、戦後生まれであるが、家族は皆、その砲撃の渦中にいた。
まだ3歳にも満たない姉も、何故かその時の恐怖が脳裏にあると言う。
私は、幼い頃からくり返し、
その日の地獄絵のような様相を、父から聞かされた。
「爆撃が治まり、防空壕から出て真っ先に見たものは、
電線に宙づりになっていた血だらけの死体だった。
だが、それには頭も首も腕もなかった。」
「隣の防空壕は、跡形もなく吹き飛び、
逃げ込んだはずの人は1人もいなかった。
ただ静まりかえり不気味だった。」
小さな私の心は、そんな話を聞くたびに、
震えが止まらず、母にしがみついた。
話の終わりに、両親は、口をそろえて
「あんなことは、二度と絶対にあってはならない。」と言った。
私は、そんな両親からの体験談を通し、
戦争の恐怖を私自身に染みこませた。
しかし、『戦争を知らない子供たち』ではないが、
今や『戦争を知らない初老』である。
先日も、報道で知ったことであるが、
沖縄戦では、北海道出身の兵士が、
他県に比べて多数戦死しているとか。
その訳を、ある学者が、
「沖縄人と北海道人の命を楯にしたのではなかろうか。
それは本土の人間とは違うと言った考えがあったように思う。」
と話していた。
それを、簡単に鵜呑みにはできないが、
戦争の残虐性を改めて知らされた思いがした。
真実ならばと、大きな憤りも感じた。
そして、自己反省とともに、
戦争を知らない者として、70年前の惨劇を、
今後も機会ある毎に、心して学び続けなければと思った。
過去、身近にこんな事があり、心に刻んだ。
もう10年も前である。
今も続いているだろうが、
私が着任した東京都内の小学校では、
東京大空襲や太平洋戦争開戦の日あたりに、
平和についての行事が組まれていた。
当時、私が赴任していた学校でも、
『平和を考える集会』が計画されていた。
担当の先生が、校長の私に相談を持ちかけてきた。
私の学校は、東京大空襲で校舎が全焼し、
学校へと逃げ込んだ人々の多くが犠牲になった。
担当者は、「その惨状を子供たちに伝えたい。」
「この地域で、空襲体験をした方に、その様子を全校児童に話してもらいたい。」
と言うのである。
私は、その提案に賛成した。
担当者は、私に、語り手の依頼を託した。
私は、何のためらいもなく快諾した。
早速、地域の有力者Mさん宅を訪ねた。
そして、集会の主旨と具体的な計画を説明し、語り手捜しをお願いした。
Mさんは、「学校のお力になれるなら。」と引き受けてくれた。
それから半月、ヤキモキさせられたが、
集会の2日前、ようやく語り手が決まったと連絡があった。
集会の日に、現れたのは顔馴染みのお店のご主人Sさんだった。
下町特有の口調で、空襲の恐怖を全校児童に30分も話し続けてくれた。
「真っ黒な死体が、爆風で布きれのように、
いくつも転がっていった。」
「学校の玄関の床石には、焼けた死体の黒い跡が残り、
何年経っても目をそむけた。」
体験者でなければ語れないことが、次から次へと続いた。
翌日、お礼のため再びMさん宅を訪ねた。
そこで教えて頂いたことが、今も強く心を捉えている。
Mさんは、私からの語り手依頼を受けると早速、
数人の町会役員に集まってもらった。
そこで、語り手の人選をした。しかし、その人選が難航した。
それは、私には思いも寄らないことだった。
学校の周辺には、何人もの空襲体験者はいた。
しかし、
「Aさんは生きのびたものの、ご両親をなくしている。」
「Bさんもそうだ。」
「Cさんは、兄さんと妹さんを亡くした。」
「Dさんは、確かお祖母さんもお祖父さんも。」
「だから、きっと思い出したくはないだろう。」
「いや、思い出させるのは気の毒だ。」
「Eさんも、Fさんも、頼むわけにはいかない。」
こんな会話が、次から次へと続き、人選は苦慮したのだと言う。
そして、ようやく肉親には亡くなった方がいなくて、
空襲体験のあるSさんに頼むことができたのだった。
それまで私は、悲惨な体験であっても、
それを後世に伝えようと言う使命感があれば、
語り手は誰でもできると思っていた。
しかし、Mさん達の人選の苦慮から、
その体験から受けた苦しみの深さを教えられた。
そして、その傷みをそっと包む人々も知った。
私は、本当の『戦争を知らない』と赤面し、唇を噛んだ。
広島に原爆が投下され、70年。沢山の報道特集があった。
その中に、70年がたってはじめて体験を語った方がいた。
長年閉ざしていた思いの深さと、
どうしても伝えたいと言う思いの強さが、
空襲体験の語り手探しに苦慮したMさん達と重なった。
再び戦争という惨劇の重大な罪と苦悩をくり返してはいけないと思った。
そうだ。昨日の平和記念式典での広島市長の平和宣言が心にある。
『武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みの実現に
忍耐強く取り組むことこそが重要だ。』
と、述べ、
『憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を
世界へ広めることが求められる。』
と訴えている。
市長は式典後の記者会見で、こうも述べた。
「あえて『安保法制』という固有名詞を記述しなくても、
おのずと熟議してほしいという気持ちは伝えられる。」と。
『秋桜』が 咲き始めた
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます