『運とは、
その人の意志や努力ではどうしようもない巡り合わせを指す。
運が良い(幸運・好運)とは、
到底実現しそうもないことを偶然実現させてしまうことなどを指す。』
上記は、辞書にあった解説だが、
今日までの私を省みるたび、幸運に恵まれていたと感謝している。
私自身の『意志や努力ではどうしようもない巡り合わせ』によって、
『偶然実現』したこと、つまり幸運な出来事にしばしば巡り会った。
その中から2つを記す。
1、最初の幸運
まもなく昭和30年という頃、まだ小学校入学前のことだ。
雪融けの季節だったので、3月末が4月上旬だろう。
札幌に住む母の実母が亡くなった。
急きょ、父と母、それに私が室蘭から札幌へ向かった。
私の記憶では、初めての汽車の旅だった。
4人が向かい合わせに座る固いボックス席で、
駅弁と陶器の急須にお猪口のついたお茶で、
食事をした記憶がある。
だが、どれだけの時間をかけて行ったのかなど、
多くは思い出せない。
ただ、経験のない旅行に小さくおびえ、
いつも母の手を握っていた。
葬儀の様子も忘れた。
母が、手にした小さな布で、何度も鼻と口をおさえていたのを、
不思議そうに見上げていた。
葬儀のため、何泊したのだろうか。
再び汽車に乗って、帰る日がきた。
春の明るい陽差しが降りそそいでいた。
辺りは雪融けが進んで、茶色い水が溜まっていた。
親戚の方々がそろって、門前で見送ってくれた。
父も母も、両手に着替えや土産の荷物を持っていた。
私は二人の後ろを、
雪融け道に足をとられながら歩いた。
ようやくバス停のある大通りまで出た。
当時はまだ、完全な車社会ではなかった。
バスやタクシー、トラック、オート三輪車などと一緒に、
雪道では馬そりが荷を運んでいた。
所々にその馬糞が落ちていた。
大通りに出てすぐ、私は災難に見舞われた。
雪融けが進む道路で、足が滑った。
あっという間に、空を仰ぎ、お尻と背中を、
車が作ったあぜ道に滑らせた。
慌てて立ち上がったが、
一瞬で馬糞入りの雪解け水で、全身がずぶ濡れになった。
久しぶりに、体中の全てを使い、大声を張り上げ泣いた。
「あらあら・・」
その時、私のそばで、とほうに暮れる母と父に、
通りの向こうから声が飛んできた。
「こっちにおいで! こっち、こっち!」
事務所のような店構えのガラス扉を開け、
女性が手招きしていた。
(ここから先は、後日、母から聞いたことだ。)
泣きじゃくる私をつれて、
通りを横切り、その店に駆け込んだ。
「冷たいでしょう。さあさあ脱いで、脱いで。
うちの子のお古があるから・・・」
その女性は、手際よくタオルや着替えを用意してくれた。
ストーブに、薪も追加した。
父も母も、シクシクが止まらない冷たい私の裸の体を拭き、
替えの服を着せた。
温かさが増したストーブで、体をあぶった。
下着も靴下も、ゴム長靴も、全てを借りた。
「世の中に、こんな親切な人がいるんだ。」
そう思いながら母は、
その好意にくり返しくり返し頭をさげた。
私は、馬糞臭さと冷たさが消え、泣くのを止めた。
差し出された、熱いお茶をすすりながら、
両親は、改めて深々と頭をさげ、お礼を述べた。
すると、女性が恥ずかしそうな表情で言った。
「だって、坊やの泣き声、裏の子とそっくりで・・。
私、てっきりそうだと思ったの。
それで、おいでおいでって言ってしまって・・。」
「そうでしたか。それは・・・。」
父も母も、もう言葉が出なかった。
「でも、よかったね。気をつけて、室蘭まで帰るのよ。」
笑顔で、私の頭をなでてくれたと言う。
2 急患の幸運
その痛みをすっかり忘れてしまって、30年が過ぎた。
このブロクの『医療 悲喜こもごも』でも書いたが、
20代、30代の私は、痔を患い、辛い思いをした。
幸い、3度目の手術で、名医に出会い、完治した。
その出会いも、幸運と言えるが、
ここでは、2度目の手術について書く。
肛門の周辺が化膿し、痛みとともに腫れあがる。
最初は、年に1回程度だったが、
次第にその回数が増え、
痛みも腫れもひどくなっていった。
高熱が出ることもあった。
30歳になろうとしていた頃、
それまでで一番と思える程の症状が続いた。
腫れと痛み、高熱、その上、片足の感覚も違った。
3日もすれば、患部から血膿が出て、回復へ向かう。
だが、そんな気配もなく、
痛みと高熱で起き上がれない日が続いた。
休みが続く私を気にかけ、
日曜日に、同じ学校の先輩教員が自宅に来てくれた。
そして、半ば強引に、家内と一緒に、
外科の休日診療医院へ車で運んだ。
診察を終えた医者は、
困り顔で緊急手術が必要だと告げた。
私は、少しでも楽になれるならと、手術をお願いした。
「これから準備をしますので、しばらく時間をください。」
相変わらず、医者の表情は暗かった。
それから1時間も待たされただろうか。
他に患者のいない待合室の長椅子で、
横になっていた。
すると、救急車のサイレン音が聞こえてきた。
次第に病院に近づいた。
看護士らが、移動ベットと一緒に忙しく動き回った。
しばらくして医者が私のところに来た。
「今、屋根から落ちて、骨盤を骨折した方が運び込まれました。
緊急手術が必要です。
実は、患者さんを運んできたお医者さんは、肛門科の方で・・。
そちらでの手術をお願いできませんでしょうか。
私は、整形が専門なので・・。」
こんな幸運はない。
すぐに、半分苦笑いを浮かべ、肛門科の医師が来た。
「よろしくお願いします。」
寝たまま、頭を下げた。
私は、骨盤骨折の人を運んできた救急車に乗せられ、
隣町にある外科の休日診療医院に向かった。
家内と先輩教員の車が、その後を追った。
日曜日の少し冷えたオペ室で、私は手術を受け、
10日ほど入院した。
痛みも腫れもすっかり消え、平熱に戻った日、
「後1,2日遅かったら、危険でしたよ。」
医者は、表情も変えずに言ってのけた。
「それにしても、すごい偶然ですね。
整形の方に、あの手術は難しかったと思います。
私は、骨盤骨折にお手上げでしたし・・・。
よかった、本当によかった。」
誰にでもなく、幸運に心から感謝した。
つけ加えるが、当時、休日診療医院は、
その地域の開業医の輪番制だった。
外科医に限らず、専門外の治療を求められることも、
多かったようだ。
夏も冬も人気のない『恋人海岸』
その人の意志や努力ではどうしようもない巡り合わせを指す。
運が良い(幸運・好運)とは、
到底実現しそうもないことを偶然実現させてしまうことなどを指す。』
上記は、辞書にあった解説だが、
今日までの私を省みるたび、幸運に恵まれていたと感謝している。
私自身の『意志や努力ではどうしようもない巡り合わせ』によって、
『偶然実現』したこと、つまり幸運な出来事にしばしば巡り会った。
その中から2つを記す。
1、最初の幸運
まもなく昭和30年という頃、まだ小学校入学前のことだ。
雪融けの季節だったので、3月末が4月上旬だろう。
札幌に住む母の実母が亡くなった。
急きょ、父と母、それに私が室蘭から札幌へ向かった。
私の記憶では、初めての汽車の旅だった。
4人が向かい合わせに座る固いボックス席で、
駅弁と陶器の急須にお猪口のついたお茶で、
食事をした記憶がある。
だが、どれだけの時間をかけて行ったのかなど、
多くは思い出せない。
ただ、経験のない旅行に小さくおびえ、
いつも母の手を握っていた。
葬儀の様子も忘れた。
母が、手にした小さな布で、何度も鼻と口をおさえていたのを、
不思議そうに見上げていた。
葬儀のため、何泊したのだろうか。
再び汽車に乗って、帰る日がきた。
春の明るい陽差しが降りそそいでいた。
辺りは雪融けが進んで、茶色い水が溜まっていた。
親戚の方々がそろって、門前で見送ってくれた。
父も母も、両手に着替えや土産の荷物を持っていた。
私は二人の後ろを、
雪融け道に足をとられながら歩いた。
ようやくバス停のある大通りまで出た。
当時はまだ、完全な車社会ではなかった。
バスやタクシー、トラック、オート三輪車などと一緒に、
雪道では馬そりが荷を運んでいた。
所々にその馬糞が落ちていた。
大通りに出てすぐ、私は災難に見舞われた。
雪融けが進む道路で、足が滑った。
あっという間に、空を仰ぎ、お尻と背中を、
車が作ったあぜ道に滑らせた。
慌てて立ち上がったが、
一瞬で馬糞入りの雪解け水で、全身がずぶ濡れになった。
久しぶりに、体中の全てを使い、大声を張り上げ泣いた。
「あらあら・・」
その時、私のそばで、とほうに暮れる母と父に、
通りの向こうから声が飛んできた。
「こっちにおいで! こっち、こっち!」
事務所のような店構えのガラス扉を開け、
女性が手招きしていた。
(ここから先は、後日、母から聞いたことだ。)
泣きじゃくる私をつれて、
通りを横切り、その店に駆け込んだ。
「冷たいでしょう。さあさあ脱いで、脱いで。
うちの子のお古があるから・・・」
その女性は、手際よくタオルや着替えを用意してくれた。
ストーブに、薪も追加した。
父も母も、シクシクが止まらない冷たい私の裸の体を拭き、
替えの服を着せた。
温かさが増したストーブで、体をあぶった。
下着も靴下も、ゴム長靴も、全てを借りた。
「世の中に、こんな親切な人がいるんだ。」
そう思いながら母は、
その好意にくり返しくり返し頭をさげた。
私は、馬糞臭さと冷たさが消え、泣くのを止めた。
差し出された、熱いお茶をすすりながら、
両親は、改めて深々と頭をさげ、お礼を述べた。
すると、女性が恥ずかしそうな表情で言った。
「だって、坊やの泣き声、裏の子とそっくりで・・。
私、てっきりそうだと思ったの。
それで、おいでおいでって言ってしまって・・。」
「そうでしたか。それは・・・。」
父も母も、もう言葉が出なかった。
「でも、よかったね。気をつけて、室蘭まで帰るのよ。」
笑顔で、私の頭をなでてくれたと言う。
2 急患の幸運
その痛みをすっかり忘れてしまって、30年が過ぎた。
このブロクの『医療 悲喜こもごも』でも書いたが、
20代、30代の私は、痔を患い、辛い思いをした。
幸い、3度目の手術で、名医に出会い、完治した。
その出会いも、幸運と言えるが、
ここでは、2度目の手術について書く。
肛門の周辺が化膿し、痛みとともに腫れあがる。
最初は、年に1回程度だったが、
次第にその回数が増え、
痛みも腫れもひどくなっていった。
高熱が出ることもあった。
30歳になろうとしていた頃、
それまでで一番と思える程の症状が続いた。
腫れと痛み、高熱、その上、片足の感覚も違った。
3日もすれば、患部から血膿が出て、回復へ向かう。
だが、そんな気配もなく、
痛みと高熱で起き上がれない日が続いた。
休みが続く私を気にかけ、
日曜日に、同じ学校の先輩教員が自宅に来てくれた。
そして、半ば強引に、家内と一緒に、
外科の休日診療医院へ車で運んだ。
診察を終えた医者は、
困り顔で緊急手術が必要だと告げた。
私は、少しでも楽になれるならと、手術をお願いした。
「これから準備をしますので、しばらく時間をください。」
相変わらず、医者の表情は暗かった。
それから1時間も待たされただろうか。
他に患者のいない待合室の長椅子で、
横になっていた。
すると、救急車のサイレン音が聞こえてきた。
次第に病院に近づいた。
看護士らが、移動ベットと一緒に忙しく動き回った。
しばらくして医者が私のところに来た。
「今、屋根から落ちて、骨盤を骨折した方が運び込まれました。
緊急手術が必要です。
実は、患者さんを運んできたお医者さんは、肛門科の方で・・。
そちらでの手術をお願いできませんでしょうか。
私は、整形が専門なので・・。」
こんな幸運はない。
すぐに、半分苦笑いを浮かべ、肛門科の医師が来た。
「よろしくお願いします。」
寝たまま、頭を下げた。
私は、骨盤骨折の人を運んできた救急車に乗せられ、
隣町にある外科の休日診療医院に向かった。
家内と先輩教員の車が、その後を追った。
日曜日の少し冷えたオペ室で、私は手術を受け、
10日ほど入院した。
痛みも腫れもすっかり消え、平熱に戻った日、
「後1,2日遅かったら、危険でしたよ。」
医者は、表情も変えずに言ってのけた。
「それにしても、すごい偶然ですね。
整形の方に、あの手術は難しかったと思います。
私は、骨盤骨折にお手上げでしたし・・・。
よかった、本当によかった。」
誰にでもなく、幸運に心から感謝した。
つけ加えるが、当時、休日診療医院は、
その地域の開業医の輪番制だった。
外科医に限らず、専門外の治療を求められることも、
多かったようだ。
夏も冬も人気のない『恋人海岸』
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