▼ 毎年くり返されるが、各地で水害が発生している。
特に、今年はコロナ禍の災害である。
沈みがちな気持ちが、怒りに変わりそうだ。
ところが、我が家の庭は、
ジューンベリーの実が最盛期を迎えた。
毎朝、3、40分かけて、ボールにいっぱいの
紫色になった実を収穫する。
年中行事になってしまったが、
ご近所さんへ、そのジャムのお裾分けにまわる。
私たちも、この時季だけは、
ヨーグルトにこのジャムを加え、楽しんでいる。
▼ さて、友人知人に恵まれてきた私だが、
5歳上のYさんについて、初めて記そうと思う。
校長に昇任した初日だ。
都内小中高校の新任校長の辞令伝達式が、
池袋の東京芸術劇場大ホールで行われた。
花冷えのする日だった。
開場を待って、入口前広場にいた。
すると、顔見知りの校長先生がYさんを連れてきて、
私に紹介してくれた。
Yさんは、私と同じS区の新任校長だった。
その年度は、二人だけがその区の小学校に着任した。
貴重な同期の校長だった。
だが、明らかに私より年上だと思った。
Yさんは、略礼服の上に薄いコートを着ていた。
でも、少し寒そうな表情をし、背を丸めていた。
「Yです。」と小さく頭をさげた。
小柄な方だった。
頭は、丸くスポーツ刈りにしていた。
すかさず,私も頭を下げた。
その時、目が合った。
今も新鮮に思い出せるが、眼光が鋭かった。
「何ものだ!」。
そんな言葉が一瞬頭をよぎった。
教師とは思えないような、目力だった。
ちょと怖かった。
それが、彼との初対面だ。
▼ その後、よく出張先で一緒になった。
特に、新任校長を対象とした研修会等では、
隣り同士の席になることが多かった。
言葉を交わす機会が、次第に増えていった。
口数が少なかった。
その分、一言一言には重みがあった。
それまで接してきたタイプにはいなかった。
だんだん惹かれていった。
彼は、教職のかたわらで、空手の師範をしていた。
自宅には道場があった。
小さな子から成人まで、
多くの弟子が彼の教えを受けていた。
「今は、子どもらの指導は門下生に任せている」。
空手について、それ以上語ったことはなかった。
しかし、その時、あの眼光の起源が分かった。
▼ 校長としての彼の職歴は、5年で定年を迎えた。
校長は皆同じだが、
彼も、その間、様々な難しい問題に直面した。
その1つは、着任して1年後のことだった。
指導力不足の教員へ保護者の不満が爆発した。
毎日のように保護者が、校長室に押しかけ、
改善を求めた。
彼は、区教委そして都教委へと何度も足を運び、
その教員の処遇や、子ども達への援助策をお願いして回った。
顔を合わせる毎に、彼の頭に白髪が増えた。
時を見て、何度か夕食に誘った。
多忙の最中、彼は時間を作り、
馴染みになった蕎麦屋に、必ず来てくれた。
お酒は得意ではなかった。
でも、少しは私に合わせてくれた。
飲みながら、学校の現状をポツリポツリと話した。
決して多くを語ろうとはしなかった。
▼ ただ、こうして2人で少しのお酒を飲むとき、
彼には決め台詞があった。
ボソボソとした口調で言った。
「アンタは、エリートで弁も立つ。
俺は、アンタの半分も言えない。
分かってもらうのに、時間がかかる。」
もし、彼以外が言ったなら、きっと棘がある。
だが、私は素直に彼の言葉を受け止め、
度々こう応じた。
「だけど、Yさんの言いたいことが、分かったら、
誰だって強く信頼して、全てを受け入れるよ。
俺とは、説得力が全然違う。」
すると、
「そうか・・。やっぱりアンタは弁が立つ。」
まんざらでもない顔をしながら、
彼は私を鋭い目で見た。
私もややいい気分で、
目の前のお酒に手を伸ばした。
▼ もう20年も前になるが、
当時、東京都は様々な学校改革に着手していた。
校長は、その先頭に立ち、改革の浸透を図った。
当然、教職員から異論反論があった。
職員室の雰囲気が悪くなることもしばしばだった。
こんな時こそ、校長の同期同士だ。
よく情報交換をした。
いつもの蕎麦屋で会った。
2時間程を過ごした後、最後は、
「Yさんは、強いから・・。」
「いや、アンタなら、大丈夫・・!」。
いつも、彼に背中を押され、別れた。
それが、あの難局を乗り越える力になっていた。
▼ ついに5年が過ぎ、彼は学校を去った。
その年の6月だ。
彼の退職を祝い『Y先生を囲む会』が、
PTAや町会が中心になり、開催される運びになった。
その前年度末、彼は、わずか5年の校長歴にも関わらず、
全国や都道府県校長会長の経験者と一緒に、
文部科学大臣賞の栄誉を受けていた。
なので、「囲む会」は、その受賞祝いも兼ね、
広範囲の人々を招いた盛大なものになった。
当然、私にも招待状が届いた。
ところが、当日と翌日、私は、
長野市で開かれる関東甲信越ブロックの校長会研修会に、
出席することになっていた。
早々、彼に会った。
開口一番、切り出した。
「囲む会の日と次の日、長野で校長の研修会なんだ。
その日の夜、東京に戻って、また次の日、行けるけど・・。」
「そんな無理しなくて、いいよ。」
彼からのそんな返答を期待していた。
ところが、彼は表情一つ変えずに、
ボソリと言った。
「そうか。すまないな。」
予想外だった。
だが、不思議と嬉しかった。
「長野から駆けつけよう。
そして、翌日朝一番で再び長野へ行こう。」
そう決めた。
▼ 囲む会を終え、久しぶりにまた蕎麦屋で会った。
私は、盛大な会を讃えた。
その時、彼はこれまたボソリと、
「無理してでも、アンタにはあそこにいて欲しかったんだ」。
彼の想いがビンビン伝わった。
つい、「ありがとう」と言っていた。
市内『館山公園』 遠景は昭和新山
特に、今年はコロナ禍の災害である。
沈みがちな気持ちが、怒りに変わりそうだ。
ところが、我が家の庭は、
ジューンベリーの実が最盛期を迎えた。
毎朝、3、40分かけて、ボールにいっぱいの
紫色になった実を収穫する。
年中行事になってしまったが、
ご近所さんへ、そのジャムのお裾分けにまわる。
私たちも、この時季だけは、
ヨーグルトにこのジャムを加え、楽しんでいる。
▼ さて、友人知人に恵まれてきた私だが、
5歳上のYさんについて、初めて記そうと思う。
校長に昇任した初日だ。
都内小中高校の新任校長の辞令伝達式が、
池袋の東京芸術劇場大ホールで行われた。
花冷えのする日だった。
開場を待って、入口前広場にいた。
すると、顔見知りの校長先生がYさんを連れてきて、
私に紹介してくれた。
Yさんは、私と同じS区の新任校長だった。
その年度は、二人だけがその区の小学校に着任した。
貴重な同期の校長だった。
だが、明らかに私より年上だと思った。
Yさんは、略礼服の上に薄いコートを着ていた。
でも、少し寒そうな表情をし、背を丸めていた。
「Yです。」と小さく頭をさげた。
小柄な方だった。
頭は、丸くスポーツ刈りにしていた。
すかさず,私も頭を下げた。
その時、目が合った。
今も新鮮に思い出せるが、眼光が鋭かった。
「何ものだ!」。
そんな言葉が一瞬頭をよぎった。
教師とは思えないような、目力だった。
ちょと怖かった。
それが、彼との初対面だ。
▼ その後、よく出張先で一緒になった。
特に、新任校長を対象とした研修会等では、
隣り同士の席になることが多かった。
言葉を交わす機会が、次第に増えていった。
口数が少なかった。
その分、一言一言には重みがあった。
それまで接してきたタイプにはいなかった。
だんだん惹かれていった。
彼は、教職のかたわらで、空手の師範をしていた。
自宅には道場があった。
小さな子から成人まで、
多くの弟子が彼の教えを受けていた。
「今は、子どもらの指導は門下生に任せている」。
空手について、それ以上語ったことはなかった。
しかし、その時、あの眼光の起源が分かった。
▼ 校長としての彼の職歴は、5年で定年を迎えた。
校長は皆同じだが、
彼も、その間、様々な難しい問題に直面した。
その1つは、着任して1年後のことだった。
指導力不足の教員へ保護者の不満が爆発した。
毎日のように保護者が、校長室に押しかけ、
改善を求めた。
彼は、区教委そして都教委へと何度も足を運び、
その教員の処遇や、子ども達への援助策をお願いして回った。
顔を合わせる毎に、彼の頭に白髪が増えた。
時を見て、何度か夕食に誘った。
多忙の最中、彼は時間を作り、
馴染みになった蕎麦屋に、必ず来てくれた。
お酒は得意ではなかった。
でも、少しは私に合わせてくれた。
飲みながら、学校の現状をポツリポツリと話した。
決して多くを語ろうとはしなかった。
▼ ただ、こうして2人で少しのお酒を飲むとき、
彼には決め台詞があった。
ボソボソとした口調で言った。
「アンタは、エリートで弁も立つ。
俺は、アンタの半分も言えない。
分かってもらうのに、時間がかかる。」
もし、彼以外が言ったなら、きっと棘がある。
だが、私は素直に彼の言葉を受け止め、
度々こう応じた。
「だけど、Yさんの言いたいことが、分かったら、
誰だって強く信頼して、全てを受け入れるよ。
俺とは、説得力が全然違う。」
すると、
「そうか・・。やっぱりアンタは弁が立つ。」
まんざらでもない顔をしながら、
彼は私を鋭い目で見た。
私もややいい気分で、
目の前のお酒に手を伸ばした。
▼ もう20年も前になるが、
当時、東京都は様々な学校改革に着手していた。
校長は、その先頭に立ち、改革の浸透を図った。
当然、教職員から異論反論があった。
職員室の雰囲気が悪くなることもしばしばだった。
こんな時こそ、校長の同期同士だ。
よく情報交換をした。
いつもの蕎麦屋で会った。
2時間程を過ごした後、最後は、
「Yさんは、強いから・・。」
「いや、アンタなら、大丈夫・・!」。
いつも、彼に背中を押され、別れた。
それが、あの難局を乗り越える力になっていた。
▼ ついに5年が過ぎ、彼は学校を去った。
その年の6月だ。
彼の退職を祝い『Y先生を囲む会』が、
PTAや町会が中心になり、開催される運びになった。
その前年度末、彼は、わずか5年の校長歴にも関わらず、
全国や都道府県校長会長の経験者と一緒に、
文部科学大臣賞の栄誉を受けていた。
なので、「囲む会」は、その受賞祝いも兼ね、
広範囲の人々を招いた盛大なものになった。
当然、私にも招待状が届いた。
ところが、当日と翌日、私は、
長野市で開かれる関東甲信越ブロックの校長会研修会に、
出席することになっていた。
早々、彼に会った。
開口一番、切り出した。
「囲む会の日と次の日、長野で校長の研修会なんだ。
その日の夜、東京に戻って、また次の日、行けるけど・・。」
「そんな無理しなくて、いいよ。」
彼からのそんな返答を期待していた。
ところが、彼は表情一つ変えずに、
ボソリと言った。
「そうか。すまないな。」
予想外だった。
だが、不思議と嬉しかった。
「長野から駆けつけよう。
そして、翌日朝一番で再び長野へ行こう。」
そう決めた。
▼ 囲む会を終え、久しぶりにまた蕎麦屋で会った。
私は、盛大な会を讃えた。
その時、彼はこれまたボソリと、
「無理してでも、アンタにはあそこにいて欲しかったんだ」。
彼の想いがビンビン伝わった。
つい、「ありがとう」と言っていた。
市内『館山公園』 遠景は昭和新山
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