ずっと続いているが、毎年年賀状には、
自作の詩を添えている。
その中から、30年前、1987年の『今 わたし』を転記する。
今 わたし
鉄鋼・造船の不況に喘ぐ街からも
これが最後と閉山に涙する町からも
久しぶりの筆跡
なつかしい口調
定まりの言葉の中に
やすらぎを載せ
私はひととき
故郷に思いをはせる
決まって三交替のサイレンが鳴り
工場から
掃き出されるように
吸い込まれるように
人々が忙しく動き出す鉄の町
一日中鉄索がガチガチガーガーと
石炭を山積み
川には真っ黒い水があふれる産炭地
家族が卓袱台に集い
一本の電線につり下がった電球の下で
皿に盛られたおかずを競う時が
ここにも あそこにも
それは
カルチャー ファッション グルメとは
無縁の時代
そして 私は 今
コンクリートの林と
鉄の扉の玄関と
窓辺にはサザンカが
赤く咲き乱れる季節に
▼ この詩に沿いながら、最初に私と家内の、
10歳前後の暮らしぶりから振り返ってみる。
私が過ごした鉄の町は、いつもどこかから工場音がしていた。
特に、一日に3回鳴り響くサイレンがその象徴だった。
その合図と共に、大きな工場につながる道路は、
製鉄所の専用バスと工員さんであふれた。
その光景は、子どもながらに、町が生き物のように思えた。
広い製鉄所の中に、5本の高い煙突が立つ工場があった。
小学生の頃、そこが見える小高い丘で写生をした。
私は、その工場と一緒に、
そこへ向かう工員さん達や専用バスを沢山描いた。
「人もバスも見えないよ。見たとおり描きなさい。」
先生に注意されても、私は消さなかった。
余談が過ぎた。
しかし、当時鉄の町は、工場にも働く人たちにも力強さがあった。
小さいながらも、きっと、
それを絵にしたかったのではなかろうか。
さて、家内はどうだったのだろうか。
いくつもの炭鉱がある町で彼女は育った。
掘り出された石炭は貨物列車がある駅に集められた。
その集積方法は、トロッコだの、トラックだの様々だった。
その1つに、山奥の炭鉱から駅の集積場まで、
高い鉄索を等間隔に立て、ケーブルを張る。
そこに大きなバケツをつるし、
山積みした石炭を運ぶ方法があった。
家内の家の近くに、そのケーブルがあった。
いつも鉄索とケーブルがすれる音がしていた。
時に、石炭の真っ黒い水滴が、洗濯物を汚した。
でも、それに腹を立てる人は少なかった。
それより、時々そのケーブルのバケツに、
石炭ではなく、炭鉱夫が乗っていることがあった。
「危険きわまりない行為だ。」
それに驚き怒るどころか、
子ども達はバケツに乗る炭鉱夫を見ると、
みんな遊びをやめ、それぞれ、空に向かって大声で叫んだ。
「テッサクーの、おーじさーん!」
すると、危険きわまりないおじさんは、
下の子ども達に大きく手をふってくれるのだ。
子ども達は、それが嬉しかった。
今度は、子ども達も大きく手を振り、再び叫ぶのだ。
「テッサクーの、おーじさーん。オーーイ!」
そのおじさんが、頭上から見えなくなるまで子ども達は、
声を張り上げ、手を振り続けた。
家内も、そんな子の1人だった。
山に囲まれた小さな盆地。
あの頃、この町で子ども達を笑顔にした微笑ましい風景である。
▼ それから30年が過ぎ、『今 わたし』を記した年。
その年から、バブルと呼ばれる時代がはじまった。
当初、私にその実感は全くなかった。
それよりも私の故郷は、
『鉄鋼・造船の不況に喘いでいた』。
そして、家内の実家がある産炭地は、
『これが最後と閉山に涙』していた。
そのことに私の心は痛んだ。
だが、一方で、カルチャーだとか、
ファッション、グルメなど、使い慣れない言葉が、
テレビや新聞、雑誌を賑わしていた。
それまでとは違う時代の始まりを、
あの痛みと同時に予感していた。
当時、私は首都圏の新築分譲団地で暮らしていた。
整然と並んだ5階建ての団地群は、
まるで『コンクリートの林』のように見えた。
そんな無機質な住居を補うように、
団地内の芝生の敷地には、四季折々の草花が植えられた。
そこに咲く花が、つかの間の時間を、私たちに提供してくれた。
特に、北国育ちの私には、冬の真っ赤な山茶花には、
つい心が奪われた。
確かに、暮らしには、
様々な新しさ、豊かさが加わっていた。
10歳のそれとは、明らかに違う。
そんなライフスタイルが定着していった。
▼ そして、今である。
驚くことに、6人に1人の子どもが、貧困の中にいると聞く。
そして、都会と地方の2極化が、進んでいる。
『今や、地方は疲弊の道を突き進んでいる。』
それを言い過ぎと否定できない現実を、随所に見る。
『地方の町は、寂れていくだけ。』
伊達に移り住み、私は、各地の町並みで、それを実感する。
一見、時代の大きなうねりの中で、
暮らしは便利に変化し、豊かさを漂わせているように思う。
しかし、1つの明かりの下に家族がそろい、
大皿に盛られたおかずを囲んだ夕食風景は、姿を消してしまった。
今では、仕事や塾に追われ、スーパーの惣菜を並べ、
家族それぞれが、自分の時間帯で食事している。
もしかすると、30年前のあの『不況に喘い』だまま、
『閉山に涙』したままが、続いているのではないだろうか。
いや、それよりももっと寂しい今になっているのでは・・・。
エッ! 近くの畑でヒマワリが満開! ビックリ!
自作の詩を添えている。
その中から、30年前、1987年の『今 わたし』を転記する。
今 わたし
鉄鋼・造船の不況に喘ぐ街からも
これが最後と閉山に涙する町からも
久しぶりの筆跡
なつかしい口調
定まりの言葉の中に
やすらぎを載せ
私はひととき
故郷に思いをはせる
決まって三交替のサイレンが鳴り
工場から
掃き出されるように
吸い込まれるように
人々が忙しく動き出す鉄の町
一日中鉄索がガチガチガーガーと
石炭を山積み
川には真っ黒い水があふれる産炭地
家族が卓袱台に集い
一本の電線につり下がった電球の下で
皿に盛られたおかずを競う時が
ここにも あそこにも
それは
カルチャー ファッション グルメとは
無縁の時代
そして 私は 今
コンクリートの林と
鉄の扉の玄関と
窓辺にはサザンカが
赤く咲き乱れる季節に
▼ この詩に沿いながら、最初に私と家内の、
10歳前後の暮らしぶりから振り返ってみる。
私が過ごした鉄の町は、いつもどこかから工場音がしていた。
特に、一日に3回鳴り響くサイレンがその象徴だった。
その合図と共に、大きな工場につながる道路は、
製鉄所の専用バスと工員さんであふれた。
その光景は、子どもながらに、町が生き物のように思えた。
広い製鉄所の中に、5本の高い煙突が立つ工場があった。
小学生の頃、そこが見える小高い丘で写生をした。
私は、その工場と一緒に、
そこへ向かう工員さん達や専用バスを沢山描いた。
「人もバスも見えないよ。見たとおり描きなさい。」
先生に注意されても、私は消さなかった。
余談が過ぎた。
しかし、当時鉄の町は、工場にも働く人たちにも力強さがあった。
小さいながらも、きっと、
それを絵にしたかったのではなかろうか。
さて、家内はどうだったのだろうか。
いくつもの炭鉱がある町で彼女は育った。
掘り出された石炭は貨物列車がある駅に集められた。
その集積方法は、トロッコだの、トラックだの様々だった。
その1つに、山奥の炭鉱から駅の集積場まで、
高い鉄索を等間隔に立て、ケーブルを張る。
そこに大きなバケツをつるし、
山積みした石炭を運ぶ方法があった。
家内の家の近くに、そのケーブルがあった。
いつも鉄索とケーブルがすれる音がしていた。
時に、石炭の真っ黒い水滴が、洗濯物を汚した。
でも、それに腹を立てる人は少なかった。
それより、時々そのケーブルのバケツに、
石炭ではなく、炭鉱夫が乗っていることがあった。
「危険きわまりない行為だ。」
それに驚き怒るどころか、
子ども達はバケツに乗る炭鉱夫を見ると、
みんな遊びをやめ、それぞれ、空に向かって大声で叫んだ。
「テッサクーの、おーじさーん!」
すると、危険きわまりないおじさんは、
下の子ども達に大きく手をふってくれるのだ。
子ども達は、それが嬉しかった。
今度は、子ども達も大きく手を振り、再び叫ぶのだ。
「テッサクーの、おーじさーん。オーーイ!」
そのおじさんが、頭上から見えなくなるまで子ども達は、
声を張り上げ、手を振り続けた。
家内も、そんな子の1人だった。
山に囲まれた小さな盆地。
あの頃、この町で子ども達を笑顔にした微笑ましい風景である。
▼ それから30年が過ぎ、『今 わたし』を記した年。
その年から、バブルと呼ばれる時代がはじまった。
当初、私にその実感は全くなかった。
それよりも私の故郷は、
『鉄鋼・造船の不況に喘いでいた』。
そして、家内の実家がある産炭地は、
『これが最後と閉山に涙』していた。
そのことに私の心は痛んだ。
だが、一方で、カルチャーだとか、
ファッション、グルメなど、使い慣れない言葉が、
テレビや新聞、雑誌を賑わしていた。
それまでとは違う時代の始まりを、
あの痛みと同時に予感していた。
当時、私は首都圏の新築分譲団地で暮らしていた。
整然と並んだ5階建ての団地群は、
まるで『コンクリートの林』のように見えた。
そんな無機質な住居を補うように、
団地内の芝生の敷地には、四季折々の草花が植えられた。
そこに咲く花が、つかの間の時間を、私たちに提供してくれた。
特に、北国育ちの私には、冬の真っ赤な山茶花には、
つい心が奪われた。
確かに、暮らしには、
様々な新しさ、豊かさが加わっていた。
10歳のそれとは、明らかに違う。
そんなライフスタイルが定着していった。
▼ そして、今である。
驚くことに、6人に1人の子どもが、貧困の中にいると聞く。
そして、都会と地方の2極化が、進んでいる。
『今や、地方は疲弊の道を突き進んでいる。』
それを言い過ぎと否定できない現実を、随所に見る。
『地方の町は、寂れていくだけ。』
伊達に移り住み、私は、各地の町並みで、それを実感する。
一見、時代の大きなうねりの中で、
暮らしは便利に変化し、豊かさを漂わせているように思う。
しかし、1つの明かりの下に家族がそろい、
大皿に盛られたおかずを囲んだ夕食風景は、姿を消してしまった。
今では、仕事や塾に追われ、スーパーの惣菜を並べ、
家族それぞれが、自分の時間帯で食事している。
もしかすると、30年前のあの『不況に喘い』だまま、
『閉山に涙』したままが、続いているのではないだろうか。
いや、それよりももっと寂しい今になっているのでは・・・。
エッ! 近くの畑でヒマワリが満開! ビックリ!
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