ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

南吉ワールド

2014-10-18 11:51:46 | 文 学
 時間を持て余し、テレビのチャンネルを何度も切り換えていると、
「世界一受けたい授業SP」で
『教育者に聞いた日本の名作ベスト50』を発表していた。

 最初を見逃したので、
それがどんな調査方法で選ばれたかは不明であったが、
興味をもった。

 このベスト50は、
映画あり、小説あり、絵画、アニメ、童話、絵本等と幅広く、
その順位と作品に、
私は次第次第に期待感を膨らませていった。

 異論反論も多かろうが、
私が、最後に勤務していた墨田区に縁の深い葛飾北斎の
「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」が、
ベスト1であったことに、
ひとり胸を張ったりしていた。

 それにしても、何よりも私を喜ばせたのは、
9位『ごんぎつね』、13位『てぶくろをかいに』
と、新美南吉作品が2つ、
しかも上位にランクインしていたことである。

 この2つの物語は、
国語の教科書によく登場してくる。
私も授業で、その感動を子ども達としばしば共有したが、
新美南吉特有のストーリー性が、読む手の心を捉えてしまう。
それが、上位ランクインの源だと思うが、
この2つの作品にも色濃く表現されている南吉の世界に、
私は、しばしば心迷わされてしまう。

 そのことについて、記す。

 まず『てぶくろをかいに』についてである。

 余談になるが、ある批評に、
“なぜ母狐は、片手だけ子狐の手を人間の手にしたのか。
その疑問で、思考が止まってしまう子どもがいるのでは”
とあり、興味をもったが、
それにしても人間の手とは反対の手を出しても、
てぶくろを買うことができたのである。

だから、無事帰り着いた子狐は
「にんげんってちっともこわかないや。」
と言う。
ところが、母狐は
「ほんとうににんげんは、いいものかしら。」
と、なんと二度も繰り返すのである。
そして、この物語は、この母狐の言葉で終わる。

何故ハッピーエンドにしないのかといった思いと共に、
人間からの数々の理不尽さが、
この母狐の深い心の傷となっているのでは。
そう思うと、
私自身、己の浅はかさに不安感を抱き、
私は着地点のないまま、
いつも悶々とするのである。
それは、南吉が私たちに残した警告なのではないだろうか。

 つづいて『ごんぎつね』である。

 ある子が、銃でうたれてもなお
「ごんは死んではいない。絶対に生きている。」
と、言い張ったが、その願いは別にして、
ごんは死ぬ間際まで兵十と心を通わすことができなかった。

振り返ってみると、
ごんは、自分の至らなさのつぐないを健気に繰り返した。
しかし、その代償が死であった。
玄関先に様々な品を届けたごん。
それを知らずに、“またいたずらをしにきたな”
と、兵十は銃をとり、うつ。
そして、土間にある栗を見て、
「ごん、おまえだったのか。いつも、くりをくれたのは。」
ごんがぐったり目をつぶったままうなずいた後、
兵十は、火縄銃をばたりととり落とす。

 物語は、そこで終わるのだが、
私はその後の兵十を思うと、心が張り裂けるほど苦しくなる。

 『ごんぎつね』は、
至らなさが生んだ間違いへのつぐないが、新しい間違いを造る。
そんな物語だと言えるが、
しかし、わりに合わないでは、事は済まされない。

 確かにうなぎを食べさせてあげることもできず
母を亡くした兵十の無念さが、
ごんに銃口をむけさせたのであろう。
しかし、ごんの行為を知った兵十は、
今後どんな生き方をして、ごんへつぐなうのだろう。

 新美南吉は、
なぜ、銃を打つ前に兵十に栗を気づかせなかったのだろうか。
なぜ、ごんが死に至るところまで描いたのだろうか。

 勝手に想像するしかないが、
日々繰り返す私たちの過ち、それへのつぐない。
その重さを、南吉は教えてくれたのだと思いたい。

 しかし、わたしは
『てぶくろをかいに』と『ごんぎつね』の
幕の引き方に釈然としない。
そして、せつなさだけが心に残り、
オロオロとしてしまうのである。

 まさに、南吉ワールドにはまっているのかも。




街路樹の銀杏も秋色に


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