10数年前になるが、
内舘牧子さんのエッセイを読んだことがある。
優しさにあふれた繊細な視線と、
乱れのないしゃれた言葉遣いが、印象に残っていた。
だから、書店の棚に並んだ話題作に、
彼女の名前があり、目に止まった。
なんと、そのタイトルが凄い。
『終わった人』である。
横に『「定年」小説』の文字。
そのインパクトに、つい手が伸びた。
表紙の帯には、こんな説明があった。
『大手銀行の出世コースから子会社に出向、
転籍させられそのまま定年を迎えた田代壮介。
仕事一筋だった彼は途方に暮れた。
生き甲斐を求め、居場所を探して、惑い、
あがき続ける男に再生の時は訪れるのか?』
定年を過ぎた者を「終わった人」と称することに、
若干の反発を感じながらも、読むことにした。
この本は、彼女が初めて書いた連載新聞小説に、
加筆したものだった。
その書き出し、第1行目が、また強烈だ。
『定年って、生前葬だな。』ときた。
そして、こんな言葉が続いた。
『… 定年の最後の日だけ…、
ハイヤーで自宅に送ってもらえる。……
ハイヤーの後部座席に身を沈め、窓を開ける。
全社員が車を囲み、声をあげたり、手を振ったり。
生前葬だ。
その中を、静かに黒塗りは動き出した。
これで長いクラクションを鳴らせば、まさに出棺だ。
車が動いて間もなくふり返ると、もう誰もいなかった。
サッサとオフィスに戻り、業務の続きを始め、
会社はいつものように動くのだ。
俺がいなくとも。
誰も何も困らずに。』
大同小異である。
彼ほど屈折していないものの、私も同じような風景を体験した。
足下を見られているようで、恥ずかしくなった。
小説では、主人公・田代壮介は、その後3年間程、
自分の落ち着く先を求め彷徨う。
そのドラマについては、是非、一読をお勧めする。
しかし、様々な場面での彼の想いについては、
同じ『終わった人』として、共感できることが多々あった。
時に小説は、主人公の言葉を通して、
作者の想いを代弁すると言う。
きっと、壮介に、内舘さんの想いも、
にじんでいるに違いない。
大変乱暴なのだが、私の視線で
全370ページの小説から、そんな言葉を探してみた。
① 今、咲き誇っている桜は、
散っていく桜を他人事として見ているだろうけど、
しょせん、そいつらもすぐに散る。
残る桜も散る運命なんだ・・・。
② ・・15才からの努力や鍛錬は、
社会でこんな最後を迎えるためのものだったのか。
こんな終わり方をするなら、
南部高校も東大法学部も一流メガバンクも、
別に必要なかった。
人は将来を知り得ないから、努力ができる。
一流大学に行こうが、どんなコースを歩もうが、
人間の行きつくところに大差はない。
③ 中には「やることがないなんで最高だ。
早くそうなりたい。
やることに追われる日々から解放されたい。」
と言うヤツがいる。
ヤツらはそう言ってみたいのだ。
その言葉の裏には、自分の今の日々が充実していて、
面白くてたまらないということがある。
本人もそれをわかっているから、言ってみたい。
たったひとつ、わかっていないのは、
そういう日々がすぐに終わるということだ。
④ 俺は一流大学から一流企業こそがエリートコースだと思い、
実際、そう生きてきた。
・・・。
サラリーマンは、人生のカードを他人に握られる。
配属先も他人が決め、出世するのもしないのも、
他人が決める。・・・
出世も転籍も、他人にカードを握られ、
他人が示した道を歩くしかなかった。
それのどこがエリートコースだ。
ならば辞表を叩きつけよと言われても、
それはできないものだ。
生活があり、家族がある。
⑤ オンリーワンは、人として大切なことだ。
だが、社会ではよほど特殊な能力でもない限り、
オンリーワンに意味を見てくれない。
替えは幾らでもいるからだ。
世間はその替えにすぐ慣れるからだ。
とはいえ、ナンバーワンでさえ、
替えは次々に出てくる。
それが社会の力というものなのだ。
⑥ よく「身の丈に合った暮らしをせよ」と言う。
それは正しい。だが、身の丈は人それぞれ違う。
俺は定年後も社会に出て、
競争したり張り合ったり、
肝を冷やしたり走り続けたりということが、
身の丈なのだ。
世間では、定年後までそんな暮らしをするのは、
あまりにも人として貧しいだとか言う。
・・・、生きる喜びを知らないだとか言う。
大きなお世話である。
趣味を持たねばと、自分に習いごとを課したり、
読書や仲間作りに精をだしたりする方が、
俺にとっては貧しい人生なのだ。
身の丈にあわないのだ。
⑦ サラリーマンとして成功したようであっても、
俺自身は「やり切った。会社人生に思い残すことはない」
という感覚を持てない。
成仏してないのだ。
だからいつもまでも、迷える魂がさまよっている。
⑧ 年齢と共に、
それまで当たり前に持っていたものが失われて行く。
世の常だ。
親、伴侶、友人知人、仕事、体力、運動能力、記憶力、
性欲、食欲、出世欲、そして男として女としてのアピール力…。
男や女の魅力は年齢ではないと言うし、
年齢にこだわる日本は成熟していないとも言う。
だが、「男盛り」「女盛り」という言葉があるように、
人間には盛りがある。
それを過ぎれば、あとは当たり前に持っていたものが
次々に失われて行く。
・・・とはいえ、そんな年齢に入ったと思いたくない。
だから懸命に埋めようとする。
まだまだ若いのだ、まだまだ盛りだ、まだまだ、まだまだ…。
⑨ 10代、20代、30代と、
年代によって「なすにふさわしいこと」があるのだ。
50代、60代、70代と、あるのだ。
形あるものは少しずつ変化し、やがて消え去る。
それに抗うことを「前向き」だと捉えるのは、
単純すぎる。
「終わった人」の年代は、
美しく衰えていく生き方を楽しみ、
讃えるべきなのだ。
⑩ (高校時代の友「16番」と再会。その「16番」の言葉)
「死んだ女房の口癖思い出してさ、
俺が何か落ちこんだりして、
昔はいがっただのって嘆いたりするたんびに、
女房は東京の下町の女だからべらんめえで叱るのす。
『ああ、しゃらくさい。
思い出と戦っても勝てねンだよッ』てさ」
俺は黙った。・・・。
ああ、俺は定年以降、
思い出とばかり戦ってきたのではないか。
思い出は時がたてばたつほど美化され、
力を持つものだ。
俺は勝てない相手と
不毛な一人相撲を取っていたのではないか。
⑪ 何にでも終わりはある。
早いか遅いかと、終わり方の善し悪しだけだ。
いずれ命も終わる。
そうなればいいも悪いもない。
世に名前を刻んだ偉人でもない限り、
時間と共に「いなかった人」と同じになる。
そう考えれば、気楽なものだ。
ここでもう一度、田代壮介の想いをふり返ってみる。
彼は想うのだ、
“人はみんな、散る桜の運命にある”と。(①から)
ましてや、“人生の旬は一瞬、すぐに終わる。”(③から)
その上、“サラリーマンは、
人生のカードを他人に握られている”(④から)
そして、“オンリーワンもナンバーワンも替えは幾らでもいる。
それが社会の力なのだ。”(⑤から)
だから、“定年とは、自分の仕事にもう思い残すことはないと
成仏することである。”(⑦から)
しょせん
“終わった人としてのゴールには、大きな差などない。”のだから(②から)
壮介は、自身を顧みて、そう納得する。
だが、
“身の丈にあった暮らしは、人それぞれ違っていい。”(⑥から)
“確かに年齢と共に失うものはあるが、
まだまだ盛りだ、まだまだ…。”(⑧から)
と、強がりたい。
しかし、“思い出と戦っても、勝てない。”(⑩から)
“終わった人は、美しく衰えていくべきだ”(⑨から)
と、想うに至るのだ。
さて、私ごとになる。
私の町を横断する基幹道路の国道37号線は、
10月末から今も、大型ダンプカーの往来が激しい。
道南各地で収穫したビート根を、
町外れの製糖工場に運んでいるのだ。
昨年も一昨年も、その車両を見た。
しかし、今年の私は、それを見る目が違う。
雪解けと共に、畑に植え付けたビートの苗が、
春、夏、秋を経て、大きな根に育った。
それまでの月日は、決して順風満帆ではなかったことを、
私は知っている。
その苦労の成果を収穫し、ダンプカーは積み、
製糖工場へ走る。
やがて、あの真っ白な砂糖に生まれ変わる。
1年間におよぶ砂糖作りのご苦労を思うと、
国道を走り抜けるダンプカーは、
力強く頼もしく、輝いて見える。
「頑張れ、ダンプカー!」
去年までと違った想いに、感情が高ぶる。
同時に、そんな私自身に、驚きも覚える。
最近、富みに思うことだが、
この年齢、そしてこの生活リズムだからなのか、
ビートを積んだダンプカーに限らず、
新しく芽生える感情や想いに心がざわめく。
それを『美しく衰えていく生き方』というのだろうか。
ならば、その生き方を大いに楽しみたいと、私も思う。
雪化粧した 有珠山
内舘牧子さんのエッセイを読んだことがある。
優しさにあふれた繊細な視線と、
乱れのないしゃれた言葉遣いが、印象に残っていた。
だから、書店の棚に並んだ話題作に、
彼女の名前があり、目に止まった。
なんと、そのタイトルが凄い。
『終わった人』である。
横に『「定年」小説』の文字。
そのインパクトに、つい手が伸びた。
表紙の帯には、こんな説明があった。
『大手銀行の出世コースから子会社に出向、
転籍させられそのまま定年を迎えた田代壮介。
仕事一筋だった彼は途方に暮れた。
生き甲斐を求め、居場所を探して、惑い、
あがき続ける男に再生の時は訪れるのか?』
定年を過ぎた者を「終わった人」と称することに、
若干の反発を感じながらも、読むことにした。
この本は、彼女が初めて書いた連載新聞小説に、
加筆したものだった。
その書き出し、第1行目が、また強烈だ。
『定年って、生前葬だな。』ときた。
そして、こんな言葉が続いた。
『… 定年の最後の日だけ…、
ハイヤーで自宅に送ってもらえる。……
ハイヤーの後部座席に身を沈め、窓を開ける。
全社員が車を囲み、声をあげたり、手を振ったり。
生前葬だ。
その中を、静かに黒塗りは動き出した。
これで長いクラクションを鳴らせば、まさに出棺だ。
車が動いて間もなくふり返ると、もう誰もいなかった。
サッサとオフィスに戻り、業務の続きを始め、
会社はいつものように動くのだ。
俺がいなくとも。
誰も何も困らずに。』
大同小異である。
彼ほど屈折していないものの、私も同じような風景を体験した。
足下を見られているようで、恥ずかしくなった。
小説では、主人公・田代壮介は、その後3年間程、
自分の落ち着く先を求め彷徨う。
そのドラマについては、是非、一読をお勧めする。
しかし、様々な場面での彼の想いについては、
同じ『終わった人』として、共感できることが多々あった。
時に小説は、主人公の言葉を通して、
作者の想いを代弁すると言う。
きっと、壮介に、内舘さんの想いも、
にじんでいるに違いない。
大変乱暴なのだが、私の視線で
全370ページの小説から、そんな言葉を探してみた。
① 今、咲き誇っている桜は、
散っていく桜を他人事として見ているだろうけど、
しょせん、そいつらもすぐに散る。
残る桜も散る運命なんだ・・・。
② ・・15才からの努力や鍛錬は、
社会でこんな最後を迎えるためのものだったのか。
こんな終わり方をするなら、
南部高校も東大法学部も一流メガバンクも、
別に必要なかった。
人は将来を知り得ないから、努力ができる。
一流大学に行こうが、どんなコースを歩もうが、
人間の行きつくところに大差はない。
③ 中には「やることがないなんで最高だ。
早くそうなりたい。
やることに追われる日々から解放されたい。」
と言うヤツがいる。
ヤツらはそう言ってみたいのだ。
その言葉の裏には、自分の今の日々が充実していて、
面白くてたまらないということがある。
本人もそれをわかっているから、言ってみたい。
たったひとつ、わかっていないのは、
そういう日々がすぐに終わるということだ。
④ 俺は一流大学から一流企業こそがエリートコースだと思い、
実際、そう生きてきた。
・・・。
サラリーマンは、人生のカードを他人に握られる。
配属先も他人が決め、出世するのもしないのも、
他人が決める。・・・
出世も転籍も、他人にカードを握られ、
他人が示した道を歩くしかなかった。
それのどこがエリートコースだ。
ならば辞表を叩きつけよと言われても、
それはできないものだ。
生活があり、家族がある。
⑤ オンリーワンは、人として大切なことだ。
だが、社会ではよほど特殊な能力でもない限り、
オンリーワンに意味を見てくれない。
替えは幾らでもいるからだ。
世間はその替えにすぐ慣れるからだ。
とはいえ、ナンバーワンでさえ、
替えは次々に出てくる。
それが社会の力というものなのだ。
⑥ よく「身の丈に合った暮らしをせよ」と言う。
それは正しい。だが、身の丈は人それぞれ違う。
俺は定年後も社会に出て、
競争したり張り合ったり、
肝を冷やしたり走り続けたりということが、
身の丈なのだ。
世間では、定年後までそんな暮らしをするのは、
あまりにも人として貧しいだとか言う。
・・・、生きる喜びを知らないだとか言う。
大きなお世話である。
趣味を持たねばと、自分に習いごとを課したり、
読書や仲間作りに精をだしたりする方が、
俺にとっては貧しい人生なのだ。
身の丈にあわないのだ。
⑦ サラリーマンとして成功したようであっても、
俺自身は「やり切った。会社人生に思い残すことはない」
という感覚を持てない。
成仏してないのだ。
だからいつもまでも、迷える魂がさまよっている。
⑧ 年齢と共に、
それまで当たり前に持っていたものが失われて行く。
世の常だ。
親、伴侶、友人知人、仕事、体力、運動能力、記憶力、
性欲、食欲、出世欲、そして男として女としてのアピール力…。
男や女の魅力は年齢ではないと言うし、
年齢にこだわる日本は成熟していないとも言う。
だが、「男盛り」「女盛り」という言葉があるように、
人間には盛りがある。
それを過ぎれば、あとは当たり前に持っていたものが
次々に失われて行く。
・・・とはいえ、そんな年齢に入ったと思いたくない。
だから懸命に埋めようとする。
まだまだ若いのだ、まだまだ盛りだ、まだまだ、まだまだ…。
⑨ 10代、20代、30代と、
年代によって「なすにふさわしいこと」があるのだ。
50代、60代、70代と、あるのだ。
形あるものは少しずつ変化し、やがて消え去る。
それに抗うことを「前向き」だと捉えるのは、
単純すぎる。
「終わった人」の年代は、
美しく衰えていく生き方を楽しみ、
讃えるべきなのだ。
⑩ (高校時代の友「16番」と再会。その「16番」の言葉)
「死んだ女房の口癖思い出してさ、
俺が何か落ちこんだりして、
昔はいがっただのって嘆いたりするたんびに、
女房は東京の下町の女だからべらんめえで叱るのす。
『ああ、しゃらくさい。
思い出と戦っても勝てねンだよッ』てさ」
俺は黙った。・・・。
ああ、俺は定年以降、
思い出とばかり戦ってきたのではないか。
思い出は時がたてばたつほど美化され、
力を持つものだ。
俺は勝てない相手と
不毛な一人相撲を取っていたのではないか。
⑪ 何にでも終わりはある。
早いか遅いかと、終わり方の善し悪しだけだ。
いずれ命も終わる。
そうなればいいも悪いもない。
世に名前を刻んだ偉人でもない限り、
時間と共に「いなかった人」と同じになる。
そう考えれば、気楽なものだ。
ここでもう一度、田代壮介の想いをふり返ってみる。
彼は想うのだ、
“人はみんな、散る桜の運命にある”と。(①から)
ましてや、“人生の旬は一瞬、すぐに終わる。”(③から)
その上、“サラリーマンは、
人生のカードを他人に握られている”(④から)
そして、“オンリーワンもナンバーワンも替えは幾らでもいる。
それが社会の力なのだ。”(⑤から)
だから、“定年とは、自分の仕事にもう思い残すことはないと
成仏することである。”(⑦から)
しょせん
“終わった人としてのゴールには、大きな差などない。”のだから(②から)
壮介は、自身を顧みて、そう納得する。
だが、
“身の丈にあった暮らしは、人それぞれ違っていい。”(⑥から)
“確かに年齢と共に失うものはあるが、
まだまだ盛りだ、まだまだ…。”(⑧から)
と、強がりたい。
しかし、“思い出と戦っても、勝てない。”(⑩から)
“終わった人は、美しく衰えていくべきだ”(⑨から)
と、想うに至るのだ。
さて、私ごとになる。
私の町を横断する基幹道路の国道37号線は、
10月末から今も、大型ダンプカーの往来が激しい。
道南各地で収穫したビート根を、
町外れの製糖工場に運んでいるのだ。
昨年も一昨年も、その車両を見た。
しかし、今年の私は、それを見る目が違う。
雪解けと共に、畑に植え付けたビートの苗が、
春、夏、秋を経て、大きな根に育った。
それまでの月日は、決して順風満帆ではなかったことを、
私は知っている。
その苦労の成果を収穫し、ダンプカーは積み、
製糖工場へ走る。
やがて、あの真っ白な砂糖に生まれ変わる。
1年間におよぶ砂糖作りのご苦労を思うと、
国道を走り抜けるダンプカーは、
力強く頼もしく、輝いて見える。
「頑張れ、ダンプカー!」
去年までと違った想いに、感情が高ぶる。
同時に、そんな私自身に、驚きも覚える。
最近、富みに思うことだが、
この年齢、そしてこの生活リズムだからなのか、
ビートを積んだダンプカーに限らず、
新しく芽生える感情や想いに心がざわめく。
それを『美しく衰えていく生き方』というのだろうか。
ならば、その生き方を大いに楽しみたいと、私も思う。
雪化粧した 有珠山
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