(1)市議時代の業者からの30万円現金授受疑惑がその後市長に転出してから関係事業を導入したことにより争われている岐阜県美濃加茂市長の収賄裁判は、物的証拠がなく贈収賄双方の証言の信ぴょう性が争われて1審は無罪判決で控訴された2審は逆転有罪判決となった。
贈賄側業者の現金供与の証言の信ぴょう性について、1審は証言が不自然で「(別件で情状しゃく量を期待する)捜査機関の意に沿うような虚偽供述をした可能性がある」(判決要旨)として無罪とし、2審は「相当程度具体的かつ詳細で、内容に特に不合理な点は見当たらない」(同)と1審判決を真っ向否定しての有罪判決だった。
(2)物的証拠のない裁判は「自白」だけを頼りの裁判と同じで、これまでもえん罪事件を何度かつくり出して捜査のあり方に対して反省と批判が集まったところでもある。
今回の容疑事件では、市議時代の30万円の現金授受疑惑がその後市長になってからの事業導入で争われているもので関連問題性はある。
問題の双方証言の違う現金授受は別にしても、市議時代に接触のあった関係業者から事業導入を働きかけられて、市長になって(6月)すぐに(8月)関係事業を導入した関係は関連性が(事業内容の優越性、有益性も含めて)強いと言わざるを得ない。
(3)そこで市議時代に関係事業導入の働きかけに現金授受があったかどうかの問題だ。30万円と金額が比較少額で、カネの流れの追跡、確認がむずかしく、結局は双方の証言だけが決め手となった。
物的証拠を押さえることは犯罪証明には肝要だが、かといって物的証拠がないからといって犯罪構成を証明できない、犯罪にならないではあらゆる事件は「そこ」へ逃げてしまうので、「状況証拠」(circumstantial evidence)の積み重ねで犯罪を立証することも司法、社会正義パラダイム(paradigm)としては必要となってくる。
(4)必ずしも好ましいことではないが、近年ではこれまでにない状況証拠による推定有罪判決も出てくるようになった。今回の容疑事件の2審判決では贈賄側の証言によるカネの流れを口座記録から分析して市長側に渡ったとする30万円の割り出しを証言と整合性があり信用できる(判決要旨)としている。
金額が一致してもそれが市長への贈賄に使われたという確証はなく、可能性の「ひとつ」でしかない。しかも現金30万円ということになれば、企業経営者としては一般的に取り扱う範囲内の金額でもあり、事業決済に当てられたとしてもおかしくはないものだ。
(5)見方によっては贈賄側に都合のいいカネの流れともいえる。これが3千万円とかの問題になればそうはいかない事情で、証言を裏付けるには不十分だ。
市長側にも市議時代に当該業者と会った時の記憶があいまいで、記憶にないとか不自然なところもあり(判決要旨)、裁判官の心証を悪くしているところもある。
現金贈収賄双方の証言の信ぴょう性が争われている中で、双方が立証に必要な真実性を述べることが求められる裁判であり、2審では被告人の市長への被告人質問をしなかった(報道)のはやはり審理不足で理解できないところだ。
(6)2審が否定した1審裁判での被告人市長の証言だけをとらえて不自然であいまいとして否定したのは、控訴審の公平で公正な裁判審理に反するものだ。
贈収賄疑惑の双方どちらかが真実を述べていないのか、双方とも真実を述べていないのか、そして裁判も公平、公正の精神を欠いて「三つ巴」(a triangular trial)の中で、この訴訟は最高裁で争われることになった。
(7)そもそも人が人を裁く不条理(unreasonableness)の世界観の裁判で、公益性が求められる市長の仕事ぶりが問われている。
贈賄側業者の現金供与の証言の信ぴょう性について、1審は証言が不自然で「(別件で情状しゃく量を期待する)捜査機関の意に沿うような虚偽供述をした可能性がある」(判決要旨)として無罪とし、2審は「相当程度具体的かつ詳細で、内容に特に不合理な点は見当たらない」(同)と1審判決を真っ向否定しての有罪判決だった。
(2)物的証拠のない裁判は「自白」だけを頼りの裁判と同じで、これまでもえん罪事件を何度かつくり出して捜査のあり方に対して反省と批判が集まったところでもある。
今回の容疑事件では、市議時代の30万円の現金授受疑惑がその後市長になってからの事業導入で争われているもので関連問題性はある。
問題の双方証言の違う現金授受は別にしても、市議時代に接触のあった関係業者から事業導入を働きかけられて、市長になって(6月)すぐに(8月)関係事業を導入した関係は関連性が(事業内容の優越性、有益性も含めて)強いと言わざるを得ない。
(3)そこで市議時代に関係事業導入の働きかけに現金授受があったかどうかの問題だ。30万円と金額が比較少額で、カネの流れの追跡、確認がむずかしく、結局は双方の証言だけが決め手となった。
物的証拠を押さえることは犯罪証明には肝要だが、かといって物的証拠がないからといって犯罪構成を証明できない、犯罪にならないではあらゆる事件は「そこ」へ逃げてしまうので、「状況証拠」(circumstantial evidence)の積み重ねで犯罪を立証することも司法、社会正義パラダイム(paradigm)としては必要となってくる。
(4)必ずしも好ましいことではないが、近年ではこれまでにない状況証拠による推定有罪判決も出てくるようになった。今回の容疑事件の2審判決では贈賄側の証言によるカネの流れを口座記録から分析して市長側に渡ったとする30万円の割り出しを証言と整合性があり信用できる(判決要旨)としている。
金額が一致してもそれが市長への贈賄に使われたという確証はなく、可能性の「ひとつ」でしかない。しかも現金30万円ということになれば、企業経営者としては一般的に取り扱う範囲内の金額でもあり、事業決済に当てられたとしてもおかしくはないものだ。
(5)見方によっては贈賄側に都合のいいカネの流れともいえる。これが3千万円とかの問題になればそうはいかない事情で、証言を裏付けるには不十分だ。
市長側にも市議時代に当該業者と会った時の記憶があいまいで、記憶にないとか不自然なところもあり(判決要旨)、裁判官の心証を悪くしているところもある。
現金贈収賄双方の証言の信ぴょう性が争われている中で、双方が立証に必要な真実性を述べることが求められる裁判であり、2審では被告人の市長への被告人質問をしなかった(報道)のはやはり審理不足で理解できないところだ。
(6)2審が否定した1審裁判での被告人市長の証言だけをとらえて不自然であいまいとして否定したのは、控訴審の公平で公正な裁判審理に反するものだ。
贈収賄疑惑の双方どちらかが真実を述べていないのか、双方とも真実を述べていないのか、そして裁判も公平、公正の精神を欠いて「三つ巴」(a triangular trial)の中で、この訴訟は最高裁で争われることになった。
(7)そもそも人が人を裁く不条理(unreasonableness)の世界観の裁判で、公益性が求められる市長の仕事ぶりが問われている。