いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

監督責任論。 theory of responsibility of supervision

2018-05-21 20:23:28 | 日記
 (1)日大と関学大のアメフト定期戦での「ありえない」危険な大反則行為について、一部で日大内田監督が指示したとする関係者の発言報道もあり(当人は否定)、もし仮にそうだとすれば公式戦ではない定期戦だからの軽い気持ちがあったのか、危険な大反則を冒した同選手は直後にも2度、3度と暴力行為を働いて退場処分になったが、ベンチに還った同選手を監督もコーチングスタッフもとがめることなくゲームを続けたことが映像でわかっている。

 (2)ゲーム中に選手をその場で注意、指導する行為は、あるいはゲームの士気全体を弱めることにもなり、ゲーム後に直接反省指導することはあるのかもしれない。
 ゲームでの反則の「責任」は選手にあるのではなく、これまで指導してきた「監督」にあるのは間違いないので、その場で反則行為選手をとがめるのは筋違いなのかもしれない。

 「監督」は戦法、作戦、メンバーを決めるだけのものではなく、ゲームに送り出す選手のすべてに「責任」を持つものでなければならないオールラウンドの立場のものだ。
 スポーツの「表」(ゲーム)と「裏」(ロッカールーム)の顔について考えられる相反する実情を書いたが、選手が「裏」の顔をゲームで出してはスポーツの信条は成り立たないフェアゲームが本質本論だ。

 (3)上述したように公式戦ではない定期戦だからの安易な気持ちがなかったのか、検証されなければならない。もうひとつ人間には間違いはつきもので、人生、哲学、仕事、スポーツなどあらゆるところで確率としてその間違える能力を最大限少なくするために訓練があり教育があり指導がある。

 「監督者」としてはそのための有効で効果的な方法論(methodology)を導き出して、構成員に普及、定着させることが目的であり目標だ。

 (4)今回の「事件」で第一の問題は、危険な大反則行為の選手を出した日大内田監督がゲーム後数週間にわたって雲隠れしたことだ。少なくともチーム、ゲームのオールラウンドの監督責任のある内田監督が自ら「表」に出て大反則行為について監督としての説明責任を果たすべきであったが、そうはしなかった。

 人間は常に間違いの可能性のある存在だと書いたが、もちろんその間違いに気づき、訂正し、反省し、時には謝罪し責任を負わなければならない。
 今回の「事件」はその当然の「監督」としての「責任」の取り方をしなかったことが問題をさらに複雑にのっぴきならないものにした。

 (5)大学は教育、研究とスポーツ促進は同一性のダイナミズム(dynamism)と位置付けられて、大学におけるスポーツの意義、存在は大きい。いちクラブの問題としてだけでなく大学組織としても責任を明確にして、監督を含めて大学全体の問題、責任として取り組む必要があったが、これもそうはならなかった。

 日大アメフト部の内田監督は、一時低迷していた日大アメフト部を再び大学日本一に導いた功績も認められたのか、日大理事も務めている。日大としてはなおさらに組織としての責任が問われて必要な状況にあった。

 (6)日大による関学大に対する反則行為の説明謝罪文書も関学大の理解を得られずに、後日に再回答が約束されている。
 今回の「事件」での対応で日大の組織評価の低下は避けられずに、社会の指標となるべく信頼を失墜した。

 人間の「間違い」はすべてを知る当事者が早く説明し、反省し、理解と責任を果たすことが唯一の解決への方法論だ。

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