(1)人間は大別するとして、自分で責任を取る人、他人に責任を押し付ける人、責任を取らない人がいる。人間は間違いをするものだから、自分で責任を取る人は信頼される。しかし今日的社会ではなかなか自分で責任を取る人はいなくて、みかけなくて、あれやこれやとやむを得ない理由を探して、つけて責任を回避あるいはやわらげる行為にでる。
(2)政治の世界で顕著にみられる傾向で、秘書に責任を押し付けたり、表に出てこずにほとぼりのさめるのを待つ持久戦に出る。企業の場合は責任を取るのは社長、最高幹部であり、従業員は企業の計算、戦略、構想、グラデーションとなってそれぞれのピースの中で業績成果に貢献するだけだから全体責任は及ばずに、それでも社長、最高幹部はよほど居心地がいいのかなかなか責任を認めず内外からの責任圧力の批判が高まれば抗しきれずに逃げ道がなくようやく責任を取る(辞任)ことになる。
(3)これが人間の本来的な持っている本能、資質なのか、育て方、社会環境からくるものなのかは性善説、性悪説があるようによくわからない。国家、国民、社会をまとめる政治の世界がそうであるから国民、社会にも近年さらに昨年、今年と自己責任を他人、他所に求める行為、犯罪が目につく。
本来はどこにもないユートピア(Utopia)世界が自己には存在し、ひたすら他人、他所の責任に救いを見出し、実現を目指す世界だ。
最近の犯罪者から聞こえてくるのが、自分ひとりでは死ねないので他人を巻き添えにして、あるいは誰かを殺害して死刑になることを望む意思だ。大変厄介な論法で迷惑千万の考えだが、自分で自分のまいた責任を取れない、取らないだから他人を道連れの悪意事件だ。
(4)国民の負託を受けた政治の世界がこうだから、こうなったとかそもそも性善説、性悪説があるように人間の意思、行動はわからないとか書いたが、1970年三島由紀夫は国体の矛盾を正そう(三島観)として自らの意思で自衛隊クーデター決起を促したが、理解されないとみると自衛隊を道連れにすることなく自決して責任をとった。
(5)三島の自決を美化、正当化することはまったくしない。戦力不保持、交戦権を有しない憲法に抵触する自衛隊がそれでも国、国民を守るという理論的矛盾を正したいという思いは理解できるが、それは民主主義国家日本でクーデターではなく政治、国民審判で判断、決定することであり、三島もまた政治、国民に失望していた時代でもあった。
(6)よりよい政治、国民が責任を持って社会を変えていかなければならない。通常国会が始まった。