「私的な財津和夫論」の第6回目は「フォーシンガーズとチューリップ」です。
6 フォーシンガーズとチューリップ(four singers and tulip)
(1)08年の5回目の再結成によるチューリップ全国コンサートツアーを最後に、財津和
夫さんはかって18年間続けたチューリップとしての音楽活動に区切りをつけた。
すでに2、3回目あたりの再結成チューリップコンサートから、他のメンバーからこれが
最後との声も寄せられていたと聞いており、また楽曲構成上も年令的に歌の内容に現在
時点で心象的にマッチしなくなったこと、トータルとしてのチューリップサウンド展開のオリ
ジナリティがきつくなったことなど、最終的に「サウンド」の完成度に厳しく向き合う財津和
夫さんの音楽観、理想がチューリップ活動の区切りに結びついたと言うべきだろう。チュー
リップとしての全国コンサートツアーには区切りをつけても、単発1ステージのコンサートに
は理解も示していてその約束どおり来年3月に地元九州のイベントに協賛して他のミュー
ジシャンとともに福岡でチューリップライブを開催する。
(2)財津和夫さんが福岡で本格的な音楽バンド活動を始めたのは69年の「フォーシンガ
ーズ」という4人のアコースティックバンドだった。当時はフォーク全盛時代で、ほとんどの
バンドが日本の民謡、童謡をポップス調にアレンジしたフォークソングを演奏していた。
「フォーシンガーズ」も当時のアマチュアの音楽コンテスト、ヤマハライトミュージックコン
テストの全国大会に福岡代表として参加して「金毘羅舟々」で6位入賞を果たしている。
当時のフォーシンガーズは、アメリカンフォークの流れ、影響を受けたバンドでコーラス、
ハーモニーのきれいなフォークバンドだった。ハイトーンのち密なコーラス、ハーモニーで
完成度の高い音楽性を持っていた。今でも、財津和夫さんは、この時の「フォーシンガー
ズ」が「最強の」メンバーであったと言っている。
(3)このフォーシンガーズのメンバーを前身のチューリップとして71年に東京に出て、財
津さん詞曲の「私の小さな人生」をレコーディングし、一旦福岡に帰り当人バンドが不在の
まま東京では同曲のプロモーションが行われた。
5人メンバーでのビートルズを意識した「チューリップ」としてのデビュー曲は「魔法の黄
色い靴」だが、この「私の小さな人生」はデビュー曲前のデビュー曲として財津さんのまぼ
ろしのデビュー曲と言われている。
一旦福岡に帰っていたフォーシンガーズが東京で本格的なプロミュージシャンとして活
動する段階になって、メンバーの中の二人がプロミュージシャンとしての活動、人生に不安
を感じていて、上京直前になってバンドを脱退した。音楽スキルも将来の人生設計も含め
て総合的にバンド脱退して地元福岡に残る決断をしたと聞いている。
財津さんが最強のメンバーだと言っている完成度の高いフォーシンガーズでプロミュージ
シャンとして活動していたとしたら、その後の財津さんの音楽スタイルは仮にその後のチュ
ーリップと同じ楽曲構成であったとしても、まったく違った「曲構想」になっていたのは間違
いない。当時の音源を聞くとPPMやキングストントリオのようなアメリカンフォークの完成度
の高い流れであった。
(4)突如のフォーシンガーズ解体後の、5人メンバーによるビートルズを意識したチューリ
ップは、当時の福岡で活動しているアマチュアバンドから財津さんがこれはと目をつけたミ
ュージシャンを引き抜いてのフォーシンガーズとは異質のエレキギター、ピアノ(シンセ)、
ドラムによるポップスサウンドのバンドで、荒削りで完成度は低くてもビートルズ同様、当
時の日本ポピュラー音楽にない革新性、斬新性、創造性のある、だからニューミュージッ
クと言われる先駆的な音楽バンドとなっていた。
フォーシンガーズはすでに完成度も高くて音楽シーンとしての将来性、革新性にはフレ
ームワークが残されていなかったと思われるが、逆に音楽の完成度は低くとも荒削りで発
信するエネルギー(バイタリティ)は計り知れないもの、魅力と可能性を秘めたチューリップ
には、革新性、斬新性、将来性、創造性が無限に広がっていることがすぐわかる音楽資質
のフレームワークを感じさせるものだった。
(5)財津和夫さんにとっては自らプロデュースしてメンバーを集めて、未知の成長、完成へ
の手ごたえのある5人のチューリップとの出会いには、自ら目指す音楽の可能性、発展性
に力を発揮して、完成度にたどりつけるフロンティアでベンチャーな音楽人生であった。
財津さんの類希(たぐいまれ)なリーダーシップ、プロデュース力がなくては成立しなかっ
たチューリップサウンドである。そして、財津さんの音楽の創造性、追求性、向上性がそれ
を支えたのは言うまでもない。
チューリップはフォーク以後の日本ポップス音楽の先駆者として、その後広く知られてい
るように数多くのポップス音楽のハード、ソフト面の先駆的、革新的な「試み」、「実績」を創
造してきた。
チューリップとしての18年間の音楽活動の内、オリジナルメンバーとして活動したのは7
年間(79年)で、13年目(85年)にはオリジナルメンバーの内残ったのは財津さんひとり
となった。その後もメンバーを入れ替えて活動し、89年に財津さんはすべてやり終えて、や
ることがなくなったとチューリップを解散する。
財津さんがつくりだした楽曲は800曲にも及び、ライブコンサートは10年で1000回を超
えて解散までに1300回近く記録した。
(6)ライブバンドのチューリップは、最後まで福岡の空気の中で「ライブ」した(生きた)バン
ドだ。財津さんにとって、「何もない」福岡時代がもっとも充実していたのかもしれない。
フロンティア(frontier)、それが財津和夫さんの「生き方」だ。
〔転載禁止です〕
6 フォーシンガーズとチューリップ(four singers and tulip)
(1)08年の5回目の再結成によるチューリップ全国コンサートツアーを最後に、財津和
夫さんはかって18年間続けたチューリップとしての音楽活動に区切りをつけた。
すでに2、3回目あたりの再結成チューリップコンサートから、他のメンバーからこれが
最後との声も寄せられていたと聞いており、また楽曲構成上も年令的に歌の内容に現在
時点で心象的にマッチしなくなったこと、トータルとしてのチューリップサウンド展開のオリ
ジナリティがきつくなったことなど、最終的に「サウンド」の完成度に厳しく向き合う財津和
夫さんの音楽観、理想がチューリップ活動の区切りに結びついたと言うべきだろう。チュー
リップとしての全国コンサートツアーには区切りをつけても、単発1ステージのコンサートに
は理解も示していてその約束どおり来年3月に地元九州のイベントに協賛して他のミュー
ジシャンとともに福岡でチューリップライブを開催する。
(2)財津和夫さんが福岡で本格的な音楽バンド活動を始めたのは69年の「フォーシンガ
ーズ」という4人のアコースティックバンドだった。当時はフォーク全盛時代で、ほとんどの
バンドが日本の民謡、童謡をポップス調にアレンジしたフォークソングを演奏していた。
「フォーシンガーズ」も当時のアマチュアの音楽コンテスト、ヤマハライトミュージックコン
テストの全国大会に福岡代表として参加して「金毘羅舟々」で6位入賞を果たしている。
当時のフォーシンガーズは、アメリカンフォークの流れ、影響を受けたバンドでコーラス、
ハーモニーのきれいなフォークバンドだった。ハイトーンのち密なコーラス、ハーモニーで
完成度の高い音楽性を持っていた。今でも、財津和夫さんは、この時の「フォーシンガー
ズ」が「最強の」メンバーであったと言っている。
(3)このフォーシンガーズのメンバーを前身のチューリップとして71年に東京に出て、財
津さん詞曲の「私の小さな人生」をレコーディングし、一旦福岡に帰り当人バンドが不在の
まま東京では同曲のプロモーションが行われた。
5人メンバーでのビートルズを意識した「チューリップ」としてのデビュー曲は「魔法の黄
色い靴」だが、この「私の小さな人生」はデビュー曲前のデビュー曲として財津さんのまぼ
ろしのデビュー曲と言われている。
一旦福岡に帰っていたフォーシンガーズが東京で本格的なプロミュージシャンとして活
動する段階になって、メンバーの中の二人がプロミュージシャンとしての活動、人生に不安
を感じていて、上京直前になってバンドを脱退した。音楽スキルも将来の人生設計も含め
て総合的にバンド脱退して地元福岡に残る決断をしたと聞いている。
財津さんが最強のメンバーだと言っている完成度の高いフォーシンガーズでプロミュージ
シャンとして活動していたとしたら、その後の財津さんの音楽スタイルは仮にその後のチュ
ーリップと同じ楽曲構成であったとしても、まったく違った「曲構想」になっていたのは間違
いない。当時の音源を聞くとPPMやキングストントリオのようなアメリカンフォークの完成度
の高い流れであった。
(4)突如のフォーシンガーズ解体後の、5人メンバーによるビートルズを意識したチューリ
ップは、当時の福岡で活動しているアマチュアバンドから財津さんがこれはと目をつけたミ
ュージシャンを引き抜いてのフォーシンガーズとは異質のエレキギター、ピアノ(シンセ)、
ドラムによるポップスサウンドのバンドで、荒削りで完成度は低くてもビートルズ同様、当
時の日本ポピュラー音楽にない革新性、斬新性、創造性のある、だからニューミュージッ
クと言われる先駆的な音楽バンドとなっていた。
フォーシンガーズはすでに完成度も高くて音楽シーンとしての将来性、革新性にはフレ
ームワークが残されていなかったと思われるが、逆に音楽の完成度は低くとも荒削りで発
信するエネルギー(バイタリティ)は計り知れないもの、魅力と可能性を秘めたチューリップ
には、革新性、斬新性、将来性、創造性が無限に広がっていることがすぐわかる音楽資質
のフレームワークを感じさせるものだった。
(5)財津和夫さんにとっては自らプロデュースしてメンバーを集めて、未知の成長、完成へ
の手ごたえのある5人のチューリップとの出会いには、自ら目指す音楽の可能性、発展性
に力を発揮して、完成度にたどりつけるフロンティアでベンチャーな音楽人生であった。
財津さんの類希(たぐいまれ)なリーダーシップ、プロデュース力がなくては成立しなかっ
たチューリップサウンドである。そして、財津さんの音楽の創造性、追求性、向上性がそれ
を支えたのは言うまでもない。
チューリップはフォーク以後の日本ポップス音楽の先駆者として、その後広く知られてい
るように数多くのポップス音楽のハード、ソフト面の先駆的、革新的な「試み」、「実績」を創
造してきた。
チューリップとしての18年間の音楽活動の内、オリジナルメンバーとして活動したのは7
年間(79年)で、13年目(85年)にはオリジナルメンバーの内残ったのは財津さんひとり
となった。その後もメンバーを入れ替えて活動し、89年に財津さんはすべてやり終えて、や
ることがなくなったとチューリップを解散する。
財津さんがつくりだした楽曲は800曲にも及び、ライブコンサートは10年で1000回を超
えて解散までに1300回近く記録した。
(6)ライブバンドのチューリップは、最後まで福岡の空気の中で「ライブ」した(生きた)バン
ドだ。財津さんにとって、「何もない」福岡時代がもっとも充実していたのかもしれない。
フロンティア(frontier)、それが財津和夫さんの「生き方」だ。
〔転載禁止です〕