今日も元気で頑張るニャン

家族になった保護猫たちの日常を綴りながら、ノラ猫たちとの共存を模索するブログです。

エサをやるなは殺せと同じ・第7弾 ~だから言ったじゃないの~

2022年11月19日 | シリーズ:エサをやるなは殺せと同じ
ついに悲劇が現実に。いや、もうあちこちで起こっているに違いない。
長崎という土地柄に馴染みはないけど、ごみ袋に入れて捨てられた子猫が報道されたり、「猫捨て山」と呼ばれる山があったり、殺処分数が多かったり、猫にとって住みやすい土地ではなさそうだ。その長崎市でこの7月、ノラ猫に関する条例が施行された。その名を「動物の愛護及び管理に関する条例」と言います。その中身を見ると、タイトルとは裏腹にノラへの餌やりに対する規制、さらに飼い主に対する規制と報告義務化が格子となっている。

この条例は施行前に、毎日新聞が「ノラ猫への不適切な餌やり禁止を軸とする・・云々」と紹介していた。この記事のタイトルを見た人の多くは「ノラ猫への餌やりは不適切だから禁止する」と思ったに違いない。しかも条例そのものを見れば、ますますそう思うに違いない。

当ブログで何度も言ってきたようにそれが自分の懸念でした。それから3ヶ月近く経った長崎新聞の小さな記事。条例施行後餌やりさんが一斉に身を引いてしまい、多くのノラたちが突然ご飯を食べれなくなり、痩せ衰えて餓死するノラも出て来たという。県の推進委員の一人は「『餌やり禁止』がひとり歩きしている」と。市の動物愛護管理センターの所長さんは「条例の理念を理解してもらえてない」と。

そりゃないぞ、オジン、頑張れ!  (ニャー)

しかしこの条例では、ノラへの餌やりに多くの条件を付けて実質できないようにしているのです。「環境を汚さない事」は当然としても、対象ノラは不妊去勢手術をしていること、糞尿の始末をすること、近隣住民の理解を得ること・・こうなるとお子さんや経済的に余裕のない人はまず無理となる。この条例は本当に動物愛護の理念に基づいて作られたものなのか、根本的な部分で問われているのだと思います。かつてどこかの県が条例を改正したように、一過性の餌やりについては明確に許容するなどの処置が必要だろう。

何度でも言います。「動物愛護法」をよく読んでみて下さい。
この法律は、名前の通り(野良猫も含めた)弱き動物たちを助ける法律です。お腹を空かしたり苦痛や寒さから守ってあげることが第一義であり、同時に地域住民への配慮も求めているのです。餌をやらないことは虐待だと明記されています。違反者(虐待や遺棄)には罰則があります。捕まれば罰金刑や懲役刑です。各自治体の条例がどんなものであろうと、この法律から逸脱することはできません。糞尿の問題にしても、餌やりでノラを集めることは問題になり易いので相応の配慮が必要です。しかし1匹や2匹ならどこにでもいるし、それを迷惑だと言ってる人にも"弱き動物たちを助ける"義務はあるのです。それに、苦情を言うのなら猫を捨てた人(ノラを生み出す人々)に言うのが筋だろう。

この法律を作った人はやさしい人なんだね (ちび太)

ある意味、この動物愛護法の理念を最もないがしろにしているのが行政の担当者であり、「餌やり禁止」と叫び続けるノラ保護ボランティアであり、NPO団体であり、猫捨てを見て見ないふりをする警察であり、裁判になっても無罪に近い判決しか出さない司法なのだと思います。将来かわいそうなノラを増やさないために(目の前のノラに)餌をやるな(餓死させろ)。こんな偽善に満ちたことを平気で言うこの世の中は、まさに「動物愛誤」の世界なのかもしれません。

そもそも、何のために活動しているのかという原点に今一度戻る必要があるのではなかろうか。ノラ猫にとって最大の味方であり頼りになる人は、自分に食べ物を提供し過ごしやすくしてくれる人です。もちろん「共生」というからにはノラにだってある程度の我慢はしてもらわなけばならない。しかしノラにとって最も頼りになる餌やりさんを攻撃しているのが役人であり、保護ボランティアの人たちだ。単に禁止するのではなく、餌やりさんを労い、正しいやり方を伝えること、そしてその餌やりさんをどんどん増やしていくことこそ、動物愛護の理念であり原点であり、関わる人たちの使命であると思うのです。そして、「かわいそうなノラを減らす」ためにまずすべきことは、ノラを生み出す人たちを徹底的に取り締まって排除すること、それ以外にはないはずです。


オレは幸せ者だよ (シロキ)

◆エサをやるなは殺せと同じ:シリーズ過去記事一覧
第6弾   エサをやるなは殺せと同じ「殺処分か餓死か」2022.7.13
第5弾   エサをやるなは殺せと同じ「コメント欄に見る世相」2022.2.25
第4弾   エサをやるなは殺せと同じ「言葉の真相を暴く」2021.3.31
第3弾後編 エサをやるなは殺せと同じ「→ノラたちとの共存を目指して・番外編4」2020.8.31
第3弾前編 エサをやるなは殺せと同じ「→ノラたちとの共存を目指して・番外編3」2020.6.30
第2弾(続)  エサをやるなは殺せと同じ「理屈で勝負の巻」2018.8.23
第1弾     雑感:エサをやるなは殺せと同じ 2017.6.30


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エサをやるなは殺せと同じ・第6弾 ~殺処分か餓死か~

2022年07月13日 | シリーズ:エサをやるなは殺せと同じ
実はこのシリーズ、言いたいことはもう書き尽くしました。それでも定期的に書かずにはいられない。なぜなら、環境省をはじめ全国津々浦々の自治体、動物愛護団体(NPO法人など)が、こぞって「(不幸な猫をこれ以上増やさないために)野良猫に餌を与えてはいけない」と訴えているからです。それを様々なメディアが取り上げ、今や社会常識化しているからです。

つい最近も「猫殺処分数日本一の長崎市がついに動物愛護条例を制定。これ以上不幸な猫を増やさないために不適切な餌やりを禁止する」というニュースがあった。また朝日新聞の声欄には高校生の投稿で、「僕は猫が好きだ。だから不幸な猫を増やさないために野良猫には餌をあげないことにした」という意見が掲載された。

シャッポ 付き合い期間9ヶ月 ニャー、チビとともに初代店の看板猫
最終確認2016.12.24 (写真は行方不明となった当ブログ主要キャスト)

この問題の本質を要約すると;
1.野良猫の主たる食べ物は人の施しものである。
2.多くのサイトが書いている「虫や小動物を食べる」と言うのは、野生の猫についての話。
3.野良猫が生きる人間社会(特に都会)には、獲物となる生物がさほどいない。
4.特に冬は虫などの"自然の食べ物"は殆どなく、また暖地性の猫には厳しい気温。
5.以上のことから、すべての人が食べ物を与えなければ野良猫は餓死する。
6.「将来産まれる不幸な子を増やさない」=「今いる猫に産ませない」
7.つまり、今いる猫に死んでもらおうということ。だからエサを与えない。

この言葉の矛盾は上記の6と7だけで明白だ。目の前の猫が死なない限り、いつかは"将来不幸になる猫が産まれる"のだから。つまり「餌を与えない」目的は今いる猫を殺すことなのです。TNRでも推奨しない限り、結局1から5の理屈で目の前の猫を餓死させろと言っているのと同じなのです。「将来の不幸な猫を増やさないため」などといかにも動物愛護的な表現ではあるけど、その真相は殺処分に勝るとも劣らない(野良猫に対する)残虐な行為なのだと肝に命じるべきだ。

ちなみに、これも何回も書きましたが、「(野良猫への)餌やり禁止」は法律違反です。(動物愛護法)  法律はそんなに野良猫に冷たくありません。各自治体の条例をよく読めば、餌やり自体を禁止しているものはひとつもない。餌をやる時は他人が迷惑と感じないよう気を遣えと、当たり前の事を言っているだけなのです。さらに環境省もどの自治体も、同時に地域猫活動を推奨推進しています。しかしそういうことまで把握せず、うわべだけを認識して理解したつもりになってしまう。メディアの報道も「餌やり禁止」と間違われるものが多い。これが問題の真相なのだと思います。

ソトチビ 付き合い期間2年6か月 みうとリン一家をわが家に連れて来た
最終確認2018.2.10

もうひとつの大きな問題。
野良猫が増えるのは自然出産だけですか? 仮に今いる野良猫が1匹も産まなかったとしても、野良猫は増え続けます。売れ残ったら遺棄するしかないペット業界。さらに去る6/29に書いた「社会の闇・・・」の通り、善良なる市民が毎日のように、当たり前のように猫を捨てているのです。実際、昨日1日で猫捨てに関するニュースは自分が気付いただけで5件もありました。「不幸な猫を増やさないために」と本当に思うのなら、この自然増に勝るとも劣らないくらいの猫捨てを放っておけるはずがない。

誰も悪気はないのに「野良猫を餓死させろ」の大合唱。片や野良猫を増やし、片や殺せと言う。何でこんなことになるのかと言えば、それは"無知"のなせる業です。官民そしてメディアを巻き込んだ「(野良猫への)餌やり禁止」キャンペーンの効果と言ってもいい(実際にはそう言ってないが)。単に扇動されるのではなく自分自身で問題を見極める努力をして、しかるべき場所で自分自身の声を挙げる。それが「善良な市民」たる我々の努めなのではないでしょうか。

ダイフク 付き合い期間2年8ヶ月 初めの1年はヒールキャラ→愛されキャラに変化
最終確認2018.9.26

◆エサをやるなは殺せと同じ:シリーズ過去記事一覧
第5弾   エサをやるなは殺せと同じ「コメント欄に見る世相」2022.2.25
第4弾   エサをやるなは殺せと同じ「言葉の真相を暴く」2021.3.31
第3弾後編 エサをやるなは殺せと同じ「→ノラたちとの共存を目指して・番外編4)」2020.8.31
第3弾前編 エサをやるなは殺せと同じ「→ノラたちとの共存を目指して・番外編3)」2020.6.30
第2弾(続)  エサをやるなは殺せと同じ「理屈で勝負の巻」2018.8.23
第1弾     雑感:エサをやるなは殺せと同じ  2017.6.30 
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エサをやるなは殺せと同じ・第5弾 ~コメント欄に見る世相~

2022年02月25日 | シリーズ:エサをやるなは殺せと同じ
野良猫の記事に関しては、信頼の厚い出版物の記事でも次の表現が常用されます。
a)1匹の♀ノラが3年後には2000匹になる(環境省パンフレットより引用)
b)不幸な野良猫をこれ以上増やさないために、野良猫に餌をあげるのは止めましょう
大手出版物(ネット含む)のみならず、全ての自治体HPや猫保護団体のブログでも同じことが叫ばれた結果、今や上記2点は社会の通説となっています。

この表現の胡散臭さと欺瞞を暴いたのがシリーズの前記事(第4弾)でした。
要約すると;
a)については簡単な計算してみればわかります。
あたなの街に10匹の♀ノラがいたとします。すると3年後には2万匹になる。半数が♀としてさらに3年後には2千万匹になる。半数が♀としてさらに3年後には2百億匹になる。つまり、10年足らずで足の踏み場もないほどにノラが増えることになるのです。もちろん実際には交配率や生存率が低いのでそんなことにはなりません。

b)の表現は、突き詰めて言えば「目の前のノラを生かしておくと繁殖して増えるので餓死させましょう」ということ。"エサをあげない"というより、「繁殖させないようこの世から抹殺する」ことがこの表現の主体なのです。それが不幸なノラを減らす、また殺処分を減らす目的だとしても、この表現は自己矛盾に満ちたおよそ反動物愛護的な発想なのだと気付くべきなのです。

さらに、不幸なノラを減らしたい、殺処分を減らしたいのなら、まずノラを増やす人間の行為を止めるのが第一義のはずだが、大抵は猫捨て、売れ残り処理、多頭飼育崩壊などの問題には触れないか、あるいは横に置いたままでノラ問題が語られる。人間のエゴと向き合うことを避けては、どんなにきれいごとを並べても解決への道は閉ざされたままなのです。


家裏のノラたちの守り神「みう」(2019.8.9没)

さて、今回はひとつの記事を紹介します。今月21日にPRESIDENT Onlineが配信した記事です。出版社の信頼性は高く、筆者の方もテーマをじっくりと掘り下げ落ち着いた記事を書く方だと思います。記事のテーマは猫の殺処分。なぜなくならないのかという視点から語られています。

その記事の冒頭の部分で、「殺処分がなくならないのは野良犬や野良猫へ無責任にエサをあげる人が依然として後を絶たないからだ」と断言した。実は「無責任に」という言葉が挿入されていることがミソなのだが(脚注)、そのことを意識する読み手は少ないだろう。さらに、例の環境省のパンフを引用して野良猫の繁殖力の凄まじさを紹介。猫の遺棄について一言だけ触れているが、それよりむしろその後の繁殖が問題だと指摘しているのです。記事の本文は、不妊手術に奔走する獣医師への密着取材となっています。

この記事はYahoo ニュースとしても取り上げられました。現在はもう表サイトには出てないが記事自体はまだ残っています。Yahooの記事にはコメント欄があり、今回はそのコメントに注目しました。尚、Yahooの記事は一定の時間が経つと削除されるのでコメント欄も同時に消失します。なのでYahoo 記事のコメント欄とともにPRESIDENT Onlineの元記事も下欄に貼っておきましたので、興味のある方はご参照下さい。

現時点(25日朝)で74件のコメントが残っています。不適切コメントが既に削除された可能性がありますが、現存のコメントをすべて読みました。同記事のテーマである不妊手術による繁殖抑制についてはあまりコメントされず、最も多かったのは猫捨てやペット産業での繁殖に対する批判だった。(42%) 続いて命の尊さを訴えるもの(15%)、法律の甘さを指摘するもの(11%)。ノラ猫への餌やりを批判したものは6件で8%、いずれも餌のやり方とか餌やりの態度に対する批判でした。

実はこの結果に我ながら驚いたのです。確かに箸にもかからないジャンクコメントも散見されたが、全体として動物愛護の精神が行き渡っている。そして、記事冒頭の『野良猫問題=餌やり問題」の誘導に流されることなく、逆に問題の元凶(猫捨て)を糾弾している人が多い。ペット産業を単に批判するのではなく動物愛護の観点から共存を模索する。一般の日本人の意識は、もうメディア関係者(記者や編集者、MCやプロデューサー)を超えているのではないかとさへ思えるのです。

動物福祉後進国と言われて久しい日本。自分が初めてこの記事を書いた5年近く前は、餌やりやボラさんたちを口汚く罵るコメントに溢れていた。人間のエゴを正当化するのではなく当のノラの視点で問題解決の道を探る。やっとこの流れができつつあるのかなと、希望を持たせてくれる記事(とコメント欄)だったのです。

お店のノラたちの守り神「テンちゃん」(2019.6.16没)

◆脚注:野良猫への餌やりは動物愛護の観点から法的に認められています。ただしその場を汚したり他人の土地を無断使用したりと、不適切な餌やりは殆どの自治体が条例で禁止しています。

◆参考記事(クリックでポップアップ)

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エサをやるなは殺せと同じ・第4弾 ~言葉の真相を暴く~

2021年03月31日 | シリーズ:エサをやるなは殺せと同じ
ネット上に猫のサイトはたくさんありますが、自分が愛読するのはSippoやフェリシモ猫部。他にもねこちゃんホンポ、ねこのきもち(webmagazine)、peco、ねとらば、まいどなニュース(猫部)などもよく見ます。どのサイトもネコちゃんへの愛情に溢れていて獣医師など専門家の監修付だ。

ただ、野良猫に関しては共通した気になる記事があるのです。
「野良猫がかわいそうだと思うなら、餌をあげてはいけません。」

行方不明になったノラたちより:ソトチビ

当ブログではノラへの餌やり禁止の(書き方の)誤りについて何度も指摘してきました。しかしこのような読者の信頼が厚く閲覧数が多いと思われるサイトまでが同じ過ちを繰り返し、その結果としてノラたちがいわれのない迫害を受けている現実は見過ごすことができません。そもそもこの一見矛盾した表現、なぜこんな言い方になるのでしょうか。今一度論点を整理してみたいと思います。

1.まず第一に、餌やり禁止は法律違反
餌やりを禁止することは動物愛護法違反とみなされます。実際、愛護法の対象動物である野良猫へのエサやりそのものを禁止している自治体はありません。エサをバラ撒くなど"不適切な"餌やりを禁止しているのです。下に紹介した記事(ねこちゃんホンポ)の中で、「野良猫への餌やりが禁止されている地域(自治体)がある」という記述は明らかに誤りです。和歌山県では、「適切な餌やり」の表現がわかりにくいとして条例が改正された。その要点を下に抜粋したので参考にしてください。

2.野良猫は人間の施し物を頼りに生活している
「野良猫の食べ物」でネット検索すると、前出のサイトも含め判で押したように同じことが書いてあります。YahooやGooなどの質問サイトでこのようなスレが立つと、それらの記事をコピペしたような回答が続きます。要は小動物を食べ虫を食べ鳥を食べ・・。しかし考えてみて下さい。春夏秋冬毎日、自分の身の回りでそのような生き物と出会いますか? つまりこの説明は、イリオモテヤマネコのような野生の猫についての説明なのです。田舎ならまだしも、人間のために開発された住環境ではこのような猫が捕食する生物はそう簡単には見つからない。特に冬は、動くものしか捕食しない猫にとって、自然の食べ物は皆無と言ってもいいでしょう。人間の申し子であり人間社会で生きている野良猫は、人間の施し物を頼りに、人間と密接な関係の中で生きているのです。

つまり、誰も餌をあげなければ野良猫は生きていけない。まさに表題の通りです。それでも野良猫は死なないと言うのなら、それは結局「あなたが餌をあげなくても他の誰かがあげるから大丈夫」と言っているようなもので、それこそいい加減の極致になってしまうのではないでしょうか。

ダイフク

3.餌をあげてはいけない理由、その①「近所迷惑」
近所迷惑とは主に糞害のこと。他に植木鉢を壊したり鳴き声がうるさかったり。猫好きはさほど気にしなくても、猫が嫌いな人にとっては迷惑そのものだろう。継続的な餌やりは野良猫を集めてしまい、これらの迷惑が顕在化してクレームに繋がるという理由です。だから餌をやらない(=殺してしまえ)? 

いや、他の誰かがやるから大丈夫だ。あるいは何とか生きていくから大丈夫ということか。でも、生きているということはどこかで糞はするし悪戯もするだろう。要は顕在化しなければよいのでしょうか。仮に餌をやらなくてもたまたま野良猫が通りかかって糞をした場合、その猫嫌いさんはどうするのでしょう。誰にクレームを言うのかな? それとも野良猫を殺しますか?(犯罪だけど) 要は許容限度の問題なのです。より多くの人がより多くの場所で餌をあげれば問題解決。さらに継続的に餌をあげるなら、マナーを守ってあげれば完璧だ。野良猫がかわいそうだと本当に思うのなら、「餌をやるな」なんて言わないでもっと前向きな提案をしましょうよ。

4.餌をあげてはいけない理由、その②「繁殖して数が増える」
過酷な環境下に生きるかわいそうな野良猫を増やしたい、と思う人はいない。猫嫌いに限らず、保護団体もボランティアさんもみな同じだ。犬猫を食い物にする悪徳ブリーダーやペットショップ業界の経営者たちだって、同じ思いに違いない。でも、野良猫を増やさない、だから野良猫に餌をやるな? 何かおかしくないか。つまり、餌をあげればその子が生きながらえて将来子供を作って野良猫が増えるから餌をやるな、ということだ。それ以外に意味があるだろうか。

「かわいそうな野良猫を増やさないためにも、野良猫に餌をあげるのはやめましょう。」
もうおわかりでしょう。この表現には、明らかに野良猫を殺せという意味が含まれているのです。それがこの表現の最大の矛盾であり胡散臭さであり欺瞞なのです。野良猫を守るどころか、人間性のかけらもない残酷で身勝手な表現だということを、肝に銘じてほしいのです。野良猫はいつも飢えています。衰弱しています。目の前のその子に手を差し伸べることこそ、人間性に満ちた行為と言うべきです。参考までに、自分が推奨する言い方を下に添付しておきます(どうぶつ基金)。

5.猫嫌いさんたちとの協調
野良猫の繁殖については、「1頭のノラ♀が3年後には2000頭になる」 という環境省のパンフに基づいた記述が多く見られるが、これがいい加減であることは本シリーズ第3弾の前編に記した。実際には過酷な環境下、交配頻度や一才生存率が理論最大値には程遠い低さなのです。それでも自然増があるという事実に変わりはないが、それを言う前にすべきことがあるはずだ。

最近書いた「動物愛誤と書く諸兄へ」という記事で、野良猫の自然増に匹敵するくらいの人為的な増加(猫捨て等)をなくすために協調することを呼びかけた。不幸な野良猫たちを減らすために何ができるか。まだまだやれることはたくさんあります。 

カブキ

※ 参考にしたねこちゃんホンポ、ねこのきもちの記事は以下の通りです。
   (クリックしてポップアップ)

※ 当ブログが推奨する記事(考え方)です。

※和歌山県の条例改正の要点
 1.一度だけの餌やり、偶発的な餌やり、衰弱しているような野良猫への見るに見かねた餌やり等の反復又は継続しない餌やりは、生活環境に支障が生じないものとして行えることとします。
 2.野良猫に対し、反復又は継続して餌やりを行う場合には遵守すべきルールを定め、野良猫への餌やりは、このルールに則って行うこととします。

※シリーズ過去記事
 ★ 雑感:「エサをやるなは殺せと同じ」 2017.6.30
 ★ 続・「エサをやるなは殺せと同じ」 ~理屈で勝負の巻~ 2018.8.23
 ★ エサをやるなは殺せと同じ・第3弾(前編)2020.6.30
 ★ エサをやるなは殺せと同じ・第3弾(後編)2020.8.31

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続・「エサをやるなは殺せと同じ」 ~理屈で勝負の巻~

2018年08月23日 | シリーズ:エサをやるなは殺せと同じ
勝負と言っても、勝ちたいわけじゃないです。みんなが手を取り合うにはどうしたらいいか、と考えるうちにこうなっちゃいました。だから喧嘩はご免だけどもちろん反論大歓迎です。

トシをとると、とにかく理屈っぽくなっていけません。元のタイトルはもう1年以上も前に書いた記事ですが、未消化の部分が随分ありまして、もっとダイレクトに書いた方がいいかなと。何しろこのブログを通してのテーマの核心部分なので、何度も何度も反芻しているわけです。

「理屈で勝負」と書いたのは、このようなテーマのスレッドに必ず出てくる"動物愛誤"の連中の中には、汚い言葉を使う感情的なのは論外として、理論武装した人もいるからです。すると、正統派動物愛護の人たちの分が悪く見える。それではいけないと立ち上がろうと思ったわけですが、立ち上がれたかどうかは読んで頂いた方々のご判断です。


「オジン頑張れ、おれたちの仲間の問題だ」(テンちゃん)

次のスレッドを見て下さい。(ちょっと古いです。)
1年半前の記事「ノラたちを守る道づくり」で紹介したスレッドの再掲です。"動物愛誤"の輩に荒らされることなくいろいろな立場の人が意見を寄せていて、その比率も諸般のアンケート結果に近いので参考になるスレッドです。

スレッドの「エサやり否定」意見を集約すると、「エサをあげるなら(そのノラの)行く末まで責任を取るべきで、取れないなら(かわいそうではあるけど)エサをあげてはいけない。」 その理由は「エサをあげるだけでは他人迷惑になるから」ということでしょうか。しかも避妊手術を自費でしたくらいでは責任をとったことにはならないとも。ちなみに、私自身がスレッドに投稿したことはありません。

どのようなアンケートを見ても、「猫は大嫌いなので殺してしまえ」みたいな人が少数います。(5%程度?) 自分にはこのような人たちを説得する自信もないし、そうなるに至った経緯には多少の興味はあるけど、まあ、"ミハン"にリストアップしてもらうくらいしか思いつきません。(「月9」ドラマより) 一方大多数を構成しているのは、「ノラは可哀相だけど他人の迷惑になるから何もしない」人たちなのです。

さて、本題。
誰もノラにエサをあげなければノラは死にます。今ではゴミ置き場のガードも固く、簡単にゴミを漁れるような環境ではありません。ではエサをあげるなと言う人に質問です。あなたはそのノラが、エサをやらなければ(何処かで)死ぬことを意識して言っていますか。かわいそうだけど死んでもやむを得ないと・・。 だとしたら、あなたは「殺せ」と言っているのと同じです。いやもっとむごいかもしれない。仮面を被っているだけで、堂々と先の5%の仲間入りです。

いやいや、エサをあげなくたってノラはちゃんと生きていく? 根拠は別にして、実はこれが大方の人の考えです。だからエサやりを非難する。わざわざエサをやることでノラが居つき、周囲の人たちが糞害その他で迷惑する、それが非難の理由です。「迷惑なのはノラじゃなくてあなたのような人間だ」とか舌鋒鋭く非難する。これには人のいいスレ主だったらたじたじでしょう。自身を"猫好き"と標榜する人やノラ保護ボランティアの方も多く、「自分もノラ自身も、エサやりというあなたの迷惑行為の被害者だ」と訴える。

しかし猫だって生きていくためには食べなければならない。確かに田舎には人間と関わらない野生化した猫もいるらしい。(公的には「野猫」と言います。) 彼らは昆虫や小動物を食べて生きている。一方人間社会の中で暮らしているのが"ノラ"であり、たとえそこそこの公園や野原があったにしても、住宅地として整備された環境の下では生きていけるほど自然の食料源はない。しかもノラの大半を占める脱走猫や捨てられた猫は、自然界でのエサの捕り方すら知らないのです。飼い猫が虫を見つけても、じゃれるだけで食べないのを見たことがあると思います。

ノラの主たる食料源は人間からの施し物です。この問題を考える上で、まずそのことを認識して下さい。もう一度書きます。みんながエサをあげなければノラは死ぬ。だがエサやりを非難している本人は、ノラが死ぬなんて夢にも思ってないだろう。つまり死ぬ(殺す)ことを想定しないエサやり非難は、自分の知らないところで誰かがエサをやる分には構わないと言っているのと結果的に同じなのです。

さらに、生きていることを前提にすれば当然ながら糞もする。エサやりで居着かなくても地区のどこかにはいるわけです。そして糞をし、悪戯することもあるでしょう。それが自分の庭でなければいいのでしょうか。自分の庭がたまたまノラのトイレに使われても、運が悪かったと諦めるのでしょうか。まさか、エサやりを止めればノラが糞をしなくなると思っているわけではないでしょう。殺さない限りはです。

前回も述べたように、いわゆる規則やマナーを守らないエサやりは別。しかしエサやり自体を自己中と言うのなら、知らない場所で糞をするのは構わないというのもやはり自己中、そして事なかれ主義の賜物だ。それは単に、問題解決のために試行錯誤で何かをしたいと思う人と、自分は何もせずに他人に文句ばかり言う人の差でしかない。

エサをやらなければノラは死ぬ。死なない限り何処かで糞をする。・・・もう一度問います。糞害根絶を目指すあなたは、ノラは徹底的に殺すべきだと主張するのですか? エサやり非難は、そこまで突き詰めてはじめて成立するのです。

「不幸なノラを増やさないためにエサをやるな」というのもおかしな論理。"不幸なノラを増やさないためにノラを殺せ"ということです。この言い方が猫ボランティアの人たちに多いのは意外だ。もちろんこんなのはノラ想いでも猫想いでもない、迫害そのものです。はっきりと「殺せ」と言った方がよほどわかり易い。しかしそうでないのなら、今すぐに言い方を改めてほしいのです。そのために勘違いする人が何人もいて、ノラが本当に迫害されているのだから。

ノラの問題は地域住民全員の問題です。「興味がない」とか「関わりたくない」とか言ったってノラはいる。人間のエゴの副産物として生まれたノラに贖罪の意識を持てとまでは言わないが、ノラを可哀相だと思うのならエサやりを認めましょう。そして、生きている限り糞もする、ということを認めましょう。どうしても嫌なら「殺せ」とはっきり言って下さい。人間性の仮面を被って、エサやり非難に矛先を向けるのは筋違いです。ノラなんかに自治会費を使うな? いやいやそういうことのために自治会費はあるのでしょう。ノラを減らしたいのなら、まず猫を捨てる人間をやっつけることから始めましょう。


「騒々しい家にもやっと慣れてきたんだニャン」(みう)

さて、上に掲げたスレッドをもう一度見てみて下さい。
このスレッドは建設的な提案が多いスレッドですが、スレ主のエサやりに迷惑だと言っている人は、本人が如何に猫好きや博愛を標榜しても結局は「殺せ」と言っているのと同じです。でもそのことに気付いていない。都会の真ん中で、冬であっても、虫やトカゲを食べて生きていけると思っているのです。そして、エサやりを止めれば糞害もなくなると思っている。それが「殺せ」と言わずにエサやり非難している人たちの、自分でも気付いていない本質なのです。

一方スレッドを見ればわかるように、本当にノラが可哀相だと思う人はエサやり非難をしていません。代わりにいろいろな提案をしている。「近隣の人たちや抗議された相手と話し合う」「薬を駆使して猫アレルギーを克服(して飼う)」「引っ越して飼う」「里親募集する」「ボランティア団体に相談する」等々。その実現性は別として、何とかスレ主をサポートしたい、あるいは当該ノラを救いたいという気持ちが滲み出ているのです。

ただ、だからと言って自分には、これらエサやり非難の人たちを逆に非難するつもりはありません。何故ならこの人たちの善意は本物で、単なる"勘違い"が加わっただけだと思っているからです。だがその"勘違い"が連鎖反応を生み、今やエサやり禁止は固定観念になってしまった。これを真の動物愛護の観点から覆すのは容易なことではないと承知しています。

各自治体が出しているエサやりガイドラインをよく見れば、エサやり自体は人間味に溢れた尊い行為としています。そして、"適正な"エサのやり方について指針を出している。エサやり自体を禁止している自治体などあるはずがない。何故ならそれは動物愛護法違反というれっきとした犯罪になるからです。そのことを知らない人たちが、「エサやりは当該自治体によって禁止された」などと嘯(うそぶ)いているのです。

このような都市伝説まがいの勘違いが横行していること自体が、日本人がまだ成熟しきってない証拠なのかもしれませんね。


「オジンは暇だとちょっと過激になるから気をつけてね」(ニャー)


<後注>
一過性の場合を除いて、同じノラに対する継続的なエサやりには道義的な責任が生じるという上述の意見は正しいと思います。何よりそのノラの行く末に対する責任です。ひとたびノラの信頼を得た以上は何とかしてエサやりを継続すべきで、周辺への配慮もそのためです。自分も「ノラたちとの共存を目指して・その1」の中で提案しましたが、まずは所轄官庁のガイドラインを参考にして下さい。最も大事なことは(自身も含めて)里親探しを始めることです。その方法はインターネットで調べればたくさん出てきます。


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