越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 蜂飼耳『紅水晶』

2007年12月24日 | 小説
言葉にならない人間心理を言葉で表現する
ーー蜂飼耳『紅水晶』(講談社、2007年)
越川芳明

 中原中也賞受賞の詩人による、初短編集。 
 
 主人公が、たとえば化粧品の宣伝文句を考える美容ライターだったり、心理カウンセラーだったり、図書館員だったり、まったくちがう作品が五つ並ぶ。

 だが、そのどれにも蜂飼ワールドとしかいいようのない雰囲気が漂う。それは一言でいえば、世界との微妙な距離感ではないだろうか。

 正しくは世界というより、人間というべきだろうか。人間の心理は簡単に言葉にできないが、それを言葉で表現するところに文学の逆説と醍醐味が生じる。そのことを蜂飼の小説は改めてつよく感じさせてくれる。

 主人公たちは、ときには植物のように光や影に敏感に反応し、ときには動物のように匂いや音や色に反応する。

 もちろん、同じ人間に対しては、言葉で対応するが、その言葉が自分の反応をただしく伝えてくれると限らないことを自覚しているような、そんな自信なげな対応の仕方である。

 たとえば、冒頭の「崖のにおい」の語り手は、うっかり相手に失礼かもしれない言葉を吐いたあと、このようにいう。

 「ほんとうは本心そのものというのではなかったが、口にしたら、言葉はあっというまに本心の顔を被った」と。

 一種の家族小説の体裁をとっている「くらげの庭」でも、語り手の美香は人生を一時しのぎの野営みたいなものだと捉え、夫が単身赴任になり夫の家族と同居することになるが、なかなか本心を語らない。

 語らないが、生き物としての他人に対して無関心であるわけではない。だから、死をおそれる年老いた義父に対する優しさも生じる。

 義母の不在の夜に、身重の美香が義父に添い寝をねだられ、それに応じる場面は、言葉できない主人公の本心と生と死の思いが微妙に交錯する、この短編で一番スリリングな場面だ。

 表題作「紅水晶」は、昔ストリパーだった薬剤師の女性が恋人を殺す作品だが、「引きこもり」の姉と一緒に暮らす女性を扱った「六角形」と同様、心理学のように人間を「狂人」と単純に定義することなく、言葉にしにくい狂気と正気のはざまを丁寧にさぐった秀作だ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 書評 伊藤千尋『反米大陸』 | トップ | 今年のオススメの三冊 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

小説」カテゴリの最新記事