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「麒麟が来る」と信長公記 正徳寺の会見

2020年09月21日 | 信長公雑記
2020年のNHK 大河のタイトルが「麒麟が来る」で、主人公が明智光秀と耳にした時、「あぁこんなんだろ?」と、大まかなストーリーが分かった気がした。
「麒麟」は信長の花王からの発案で、NHK大河の共通した反戦思想的に、こうなるのだろうと。
それは、光秀が信長と出合い、信長こそ天下を平和に、麒麟が現れる世にしてくれると信じて使えるが、最後には「平和のために戦ったのに~海外進出なんて!」と信長に失望して本能寺の変を起こし、秀吉との山崎の戦いを経て小栗栖で光秀も死ぬ。
「麒麟が来る」世の実現は、徳川家康に受け継がれ……「厭離穢土」チャンチャン。
放送スタート前は、こんな風に予想していましたが、ほんとその通りになりそう…。

それは兎も角、本題。
麒麟が来ると信長公記を比較してみたいとおもいます。
今回は正徳寺の会見です。

「麒麟が来る」での正徳寺の会見は、今川に押される織田家の情勢、信長の器量への疑問等から、息子高政に婚姻同盟を非難された道三が「信長を見極め、使えないと思ったら討ち取ってしまう」と言う動機でこの会見が持ち掛けられます。
一方の信長は、帰蝶から謀であると聞かされるや「会見を断る」と言いますが、道三の信頼を得るために会見を行うことを帰蝶促されます。ついで帰蝶は謎の女「伊呂波太夫」に根来衆の傭兵を派遣するように依頼、信長の行列に鉄砲隊という箔を付けて、その上道三好みの衣装まで用意して信長を送り出しました。
当日、道三と光秀は信長の行列を見物するために、民家に隠れて信長を待ち受けます。そこに来た信長の姿は有名な「うつけ」ファッション。しかし、率いる兵の中に300ほどの鉄砲隊を従えている事に道三と光秀は瞠目。ここで次週へ。
先回りした道三は正徳寺内で信長を待っていますが、信長は中々現れず、苛立つ道三。
やっと現れた信長は、うつけファッションから折り目正しい正装に。
信長はこの衣装は帰蝶が用意した事をさらりと道三に話します。道三は鉄砲の事をたずねますが、信長は鉄砲隊の事も帰蝶が用意した「はったり」だと、これもさらりと種明かししてしまい、かつ、道三が信長を討ち取るつもりだと帰蝶から教えられたことも道三に話します。
道三は「なら何故、林佐渡などの家老家達をつれてこなかった」と問います。
それに対して信長は、前田利家と佐々成政を呼びつけ、この者達は家を継げない次男三男の「食いはぐれもの」であるが一騎当千、失う物がないからこそ命を惜しまず戦うと。
成り上がり者の我々は「家を起こし、国を起こし、新しき世をつくる、その気構えだけで戦う」と信長は言い放ち、それを聞いた道三は「見事なうつけじゃ」と信長を気に入ります。

「信長公記」では…
とその前に「信長公記」の説明を、信長公記は信長の家臣で弓衆であった太田牛一が様々な日記や証言を集めて書いた信長の記録です。
他の軍記物、例えば小瀬甫庵の信長記等に比べると、誇張が少く信用出来る物として信長研究の一級資料とされています。年代や日付、方角などはいい加減ですが、我々だって「あれは、何年何月で方角は…」なんて覚えていませんから。


信長公記の正徳寺会見

天文十二年四月下旬の事。
道三に面と向かって「婿殿は大たわけですぞ」と信長を中傷する者が絶えなかったが、その度に道三は「うつけでは無い」と言っていた。しかし、あまりに皆が言うので、「見参して善悪を評価しよう」と正徳寺での会見を申し込んだ。
道三は、信長が実直で無いとの噂があるので、驚かせ笑ってやろうと、古老の者を折り目正しい肩衣袴の正装をさせ、正徳寺御堂の縁に並んで座らせて信長がその前を通る様に手筈した。
その上で道三は、町の小家に潜んで信長の行列を見ものした。
その信長の服装は麒麟が来ると同じ、うつけファッションだが、行列は七・八百も連れており、健脚の
者を先頭に走らせ、三間半の朱槍五百本、弓鉄砲五百挺を持たせていた。
宿舎の寺へ到着すると、屏風を引き回して、髷を折り曲げに結い、いつ染めたか知る人もいない褐色の長袴をめし、これも何時拵えたか人が知らない小刀を差した。
これを見た家中の者は「さては、たわけを装うていたか」と肝を潰し、次第に理解していった。
御堂の縁を信長が上がったところ、道三から遣わされた春日丹後守と堀田道空が来て「早く座に着くように」と言って来たが、信長は知らぬ顔で通りすぎると縁の柱にもたれて座った。
暫くして道三が屏風を押しのけ出座したが、又これにも信長は知らぬ振りでいたところ、堀田道空が「これぞ山城殿(道三)にて御座る」と教えた。すると信長は「であるか」と答え、敷居の内に入り、道三に挨拶をして座に着いた。
そこで道空が湯付けを運ばせ、道三と信長は杯を交わした。
「また近い内に会いましょう」と言って信長は席を立った。萩原の渡しまで計二十町ほど見送ったが、そのとき美濃衆の槍は短く、信長方の槍は長く、朱槍をたて並べているのを見た道三は、面白く無さそうな様子で、無口になり帰っていった。
途中「あかなべ」というところで猪子兵助が道三に「どう見ても信長は、たわけですな」と言ったところ、道三は「だから無念なのだ」と言い「この道三の子供達は、そのたわけの門外に馬を繋ぐ事になるが目に見えている」とばかり言っていた。
これ以後、道三の前で信長の事を「たわけ」と言う者は居なくなった。

さて、どうでしょう。
俄然「信長公記」の方が面白いと思うのですが!
「麒麟が来る」の方は、帰蝶の「でしゃばり」具合が鬱陶しく、不必要だと感じました。
私としては、信長の前半生を考える要素の一つに馬回り衆との絆があると思っていますが、それをうかがわせる「食いはぐれ者」や「新しき世」を信長が語るのシーンだけが、わくわくした瞬間でした。
「なんで光秀がいるんだよ!」と言うツッコミは当然入れて置きます。(大河は、何処へでも主人公を参加させ、みんなと知り合い、じゃないと気が済まないんだよね…)

一方の「信長公記」の方は面白い。(面白いと書きましたが信長公記は愚直なまでにノンフィクションの姿勢)
うつけ信長がパリッとした信長に変身するシーンでは、信長の家臣達も「たわけを装っていたか」と驚かせ、先に着座させ様とする道三側の意図を見て、縁の柱に寄り掛かり、痺れを切らした道三が出て来て来ても知らん顔。
何方が先に座に付くか、駆け引きをしている訳です!
余談てすが、この記事を書いていて思い出したのが、後に信長が朝廷に参内した時に、正親町天皇から目通りが取り計られて、庭で待たされた信長が痺れを切らして岐阜へ帰国し、朝廷が慌てたたエピソードです。
私は信長と天皇の権威を廻る暗闘はあったと考える派ですが、同じ様な駆け引きが正徳寺の会見でもあったのです。
信長を見送った際に道三は、信長の長槍兵達の槍が朱槍で長さが長い事に劣等感を抱いています。
織田勢の槍が三間半で他に比べ長く、それを工夫考案したのは信長で、それを示すエピソードですが、これを「麒麟が来る」では借り物の鉄砲隊に道三が瞠目すると書き換えたのは、劣化エピソードだと思います。
帰路道三に猪子兵助(後に信長の家臣)が信長を「たわけを」と言い、それに対して道三は「だから無念なのだ。私の子供達が信長に従う事になる」と予測していますが、原文の「されハ」は「されば」「だから」ですから、「たわけ」と見られる様な「常識を超越した人間だから」と言う意味なのか、「お前らの様な信長の本質を見抜けない者達ばかりだから」と言う意味なのでしょうか?考えると面白いです。

大河ドラマは尺もあるでしょうが、史実とされるエピソードをカットするに留まらず、そこにフィクションを入れてしまうのが気に入らない点です。
事実は小説よりも希なりと言いますが、歴史には面白い感動を呼ぶエピソードが物凄い数埋れていて、歴史に興味の無い人達はそのエピソードを知らないで、フィクションのドラマや小説に感動していたりする訳です。そういった人達に日本史の面白さを教えるのもNHK 大河の役目だと私は思うのですが、麒麟がえがく正徳寺の会見は逆効果だと思いましたね。




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