5月10日、映画『岳』を観て来ました。
上映開始直後は、『岳』が映画になった事に感動していた俺。
しかし・・・。
ストーリーが進むにつれ・・・原作と映画の設定の違い。
原作のエピソード改ざんが目に付き、完全に冷めた気持ちでエンディングを迎えました。
冷めた理由
何故にあそこまで原作の登場人物設定を変えたのだろうか?
「野田」が「三歩」の先輩だったり、「阿久津」が熱血救助隊員で「久美」の先輩ってのは酷かったし
「ナオタ」も、ひ弱な子供に描かれていた。(岳第3集、第3歩『オトコメシ』のラストに於ける「ナオタ」と比べて欲しい。)
特に酷かったのが「椎名久美」の設定と「三歩」の過去の設定。
「久美」の父親が救助隊員!しかも「野田」の先輩で二重遭難で死亡・・・
それが「久美」の救助隊員を志願した理由って・・・(なんてベタなんだ)
「三歩」がハーフドームで滑落して来る「親友」(誰れ?笑)の手を掴もうとするシーンにもビックリした。
映画の元になった原作のエピソードで「三歩」がやらないと言っている事を(『岳』第2集 第3歩『滑落』を参照)映画の「三歩」はやってしまっている・・・。
あれでは、映画の「三歩」は救助で死んでしまうだろう。
ラストの『久美』なんて、原作では考えられない行動を取る。
更に驚く事に、その『久美』の無茶な行動によって一人の命が助る・・・・。
本当の救助隊員なら絶対にしてはならない事をカッコいいと見せる
安っぽい熱血救助物は大っきらいなんですよ俺!
そうじゃないから『岳』が好きなのに・・・。
原作において、一番心に強く残っている救助の話があります。
それは第2集 第6歩『選択』です。
この話で「三歩」は非情な、しかし正しい選択をします。
その選択を悲しい表情や苦しさを見せずに行います。
ウソまでつきます(この話で完全に、岳と三歩に惚れ込みました)
(第5集 『救助士』の話も改ざんされててショック)
このエピソード、『岳』の魅力である『穏やかな面』と『厳しい面』の後の方を表している部分だと思っていますが、
映画では意図的にこう言った『厳しい面』を排除している事が伺われて残念でした。
どうも在り来たりの、甘っちょろい救助物語が作りたかった様で・・・残念。
更にもう一つ言わせてもらうと
映画では、山に来る人達が何故山に来るのか?登るのか?が描かれていませんでした。
(映画オリジナルの三歩と久美が救助をはじめた理由を除き)
何故山に来るのか?山を登るのか?山に何があるのか?山で何を得たのか?
これ、原作『岳』の重要なテーマのはずでしょう?
映画序盤シェルンドに落ちた遭難者、あれじゃただの愚か者でしょう?
彼が何故山に来たのか?知りたい人は原作第1集 第3歩『写真』を読んで下さい。
最後に、
『登場人物の設定を変える』
『原作の重要なテーマや主人公や作者の救助の考え方すらも変える』
監督自身も、これは別の『岳』なんて言いますが、じゃあオリジナルの救助物でも作れよ!と言いたい。
其処までして何故原作のあるものを映画化するのだろうか?
よく言われるのは、人気のある原作を映画化する事で、原作のファンによる収益がある程度見込める事&話題性&出版社も取り込める。
それにより映画会社からの製作許可、スポンサー(資金)が集まるからだそうです。(製作の許可が下り易い)
結局、これを映画化したい!この素晴らしい作品を見せたい!では無いんですよね。
ほんと残念。
そんな訳で『岳』を愛するが故にこの映画、評価できませんが・・・
映画を好かったと思う方も、そうでない方も原作を読んで見て下さい。
原作は、映画よりも100倍厳しく優しい、山へ来る人達の物語です。
人は何故山へ来るのか?その答えの一端を垣間見れるでしょう。
劇中、谷村山荘のシーンに『岳』の作者、石塚真一さんと超有名フリークライマーの平山ユージさんが出演している事に気付きました。(気がつきましたか?)
そこが、この映画で一番印象に残ってるかな(笑)。