「北極星に願いをこめて」 (右脳のひらめき)

I'm your polar star in the journey of life.

運命を受け入れる

2015年11月26日 19時04分24秒 | 精神哲学 ~魂の筋力をつける朋塾~

こんばんは。

 

多少なり、当事者の選択で積み重なっていく人生に、大きな打撃を与えるのは、

 

「不幸なイベント」

 

である。

こればかりは、ランダムに起こるので、自身が強い思いで乗り越えたくても、乗り越えられずに、死者が続出する事は、今も続く。

何が一番長生きができるのか、それが大事なポイントなんだろうか。長生きしても、誰もいなくなった寂しい老後を迎えれば、余計に寂しさは募るだろう。

 

どこで、亡くなるのかは、真剣に向き合う必要があると思う。

 

家族は、そりゃ、長生きして貰いたいと思うと思う。でも、胃ろうにした時、当人が亡くなるタイミングの選択権を握ってしまうのは、当人より家族なんだよ。

誰だって、この管を抜いたら死ぬと分かってる管を抜ける程、精神は強くないだろうし、覚悟もない。よしんば、潔さを当人が持ってて、抜けって言われて、抜ける奴いると思うか。

しかも、相手は冷静になれない身内だ。

 

身内のライフラインを握ってしまうことは、当事者以上の葛藤や苦労があるんだ。それでも、身内に生き続けて欲しいというワガママだけの問題じゃないだろう。

 

亡くなるポイントを、家族が納得して充分に時を重ねないと、当事者は、胃ろうで生き続けて、子孫全滅という笑えない未来だってありそうだろう。

 

前に、腕にアフェレーシス(血液透析)の為に、シャント用の人工血管を入れた女性がいた。女性は、その当時捨て置けない事情があった。でも、気がつくと、女性の子供たちには事故や自殺が相次ぎ、女性の身内は一切いなくなってしまった。

親戚も、ご主人系も既に絶えたのに、彼女だけ生き続ける。

苦しいことだろうと思うよ。それは、辛いことだよ。肉体年齢がどの程度かによって、彼女は、精神的に半ば永遠に近い年数を生きる。120に届くかもしれない。

でも、彼女は、そこで救いをキリスト教に求めた。あれは、自殺ご法度だ。益々、彼女は、民間伝承の人魚を食べて長生きし続けた比丘尼の様にあり続ける。心身ともに、狂う寸前である。

でも、神は助けなど与えない。

亡くなった人の記憶が薄れても、彼女は肉体年齢だけで、生き続ける。これは、当人にとって良かった事なんだろうか。わたしは泣いていた当人にどうしようもなかった。

 

このケースは、当事者が選択しているが、胃ろうを入れた老人のラインを抜くのは、誤嚥もあるからね。それで亡くなってよしと、看取る方と、当事者が納得しなくちゃできない。

 

でも、実際は、綺麗な話には、絶対ならない。

 

当人にとって、何が一番幸せの中で、逝けるのか、考えたら切ない事だと思うんだ。人は、口では拒否しようと言えても、当事者を目の前にしてみたら、結局は意見を容易く感情に流される。

 

でも、ひとは死ぬ事だけは平等に訪れる。

 

だからこそ、どこで潔くなるのかは、当人にとっても考える事はキツイだろうけれど、必要な事だと思うよ。

でも、最近は見苦しい生き方が多いね。

反対に、潔さを尊んで育てられ、覚悟をいつも決めて生きてきたわたしは、一体どうして、この潔さで、いつも生き急いでしまうのか、悩む事もあるんだ。息子の為には、18に下の息子がなるまで、生きる必要があるわたしは、それでも、時々悩むんだ。

 

死ぬって思うとき、絶大な力で生き抜くサバイバルを身につけてきたのも、覚悟のせいだろう。でも、疲れちゃうことだってあるんだ。

だからこそ、生きてて欲しいという家族のワガママ、自分のワガママに線を引ける強さがないと、寂しい老後になってしまうよ。

わたしは、一生懸命やってきたからね。格段、今になって焦ることはないけれど、納期の都合であと半年とかはある。

 

でも、自分がいつでも、死の選択権を全部失わない生き方をしたいと考えている。

 

 

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