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2 35分のタイムラグ

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

都留文科大学・高田教授の報告【其の三】


2 35分のタイムラグ

 今回の津波は地震から波の到着まで約35分の時間差があり、この間に地震に対してどのような情報を得たのか、また情報がない状態でも、これまでの経験からどのような判断下したかによって、退避行動に大きな差が生じている。

 地震発生当時自宅周辺にいた住民の多くは、防災計画で指定された町内5カ所の津波被害1次避難所へ移動している。この1次避難場所はいずれも海抜20mほどある高台が指定されている。

 海岸沿いの平地部にあった釜石自動車学校の教習生、職員、三菱自動車のディーラーなど事業所の職員は組織的に道地沢団地や片岸稲荷神社の避難所に避難している。

 釜石市内に居た住民も、この時間差を使って車で自宅に戻る時間があった。消防団に所属するAさん(59才男性)の場合、釜石の職場から片岸に帰り、防波堤の水門が先に来た地区消防団員によって閉じられたのを確認後、地区の自宅の上にある避難所、片岸公葬地(墓地)に移動している。釜石に買い物に出ていたBさん(64才女性)は一緒に出ていた女性(両石,室浜在住)と乗り合わせて帰宅。途中両石港を経由時に海水が引き始めているのを確認。室浜へ帰るのは不可能と判断し、両名は同じく片岸公葬地に避難して無事であった。

 地震発生時、室浜方面へのウオーキングから帰宅後間もなく地震に遭遇したCさん(74才女性)は、自家用車で一旦避難場所に移動するが、再び毛布を自宅に取りに戻って津波に遭遇する。自宅は片岸でも最も水門近くに位置する。消防団によっていち早く閉められた水門からは既に水が溢れ出ていた。隣に住む義理の弟が「来たあ、来たあ。」と叫びながら走って来たので、慌ててJRの線路上まで斜面を駆け上る。「波が跳ねて真っ黒い水がやってきた。」という。Cさんは目前に自宅が流れ行くのを見て、一目散に線路上を水に追われ、枕木に足を取られながら逃げている。(波で線路は完全に消失している。)

 釜石における津波の経験は1896年(明治29)明治三陸津波:死者6687,1993年(昭和8)昭和三陸津波:死者183人/行方不明224,1960年(昭和35)チリ地震津波:被害総額6億3千万円。これが語り継がれる3つの津波の経験である。1896年の後に堤防が建設され、最終的には昭和三陸津波の水位を基準に嵩上げされていたが、引き波の力で最も弱かった箇所が崩壊している。[i]この堤防の高さと、これまでの水没地点が人々の物差しであった。十分な対策がなされているという安心感が心の隅にあった。携帯電話などを通じた外からの情報の有無が35分の行動を決めている。住民の制止を「大丈夫。」と振り切って自転車で海を見に行った男性(60代)は行方不明となった。また一人暮らしであった女性(推定60代)は近所付き合いがほとんどなかったために、亡くなったのかどうかの確認が遅れ、1か月後の瓦礫撤去で家屋の下から発見されている。

 普段の避難訓練に必ず出席していた人々は全て避難場所に移動して助かったという話も聞かれた。



[i]1961年にチリ津波の復旧工事に来た技術者(69才男性)は、1984年に住居を構える。その判断基準が昭和三陸津波を想定した堤防の高さにあった。情報はこの話者による。


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