羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

ピナ・バウシュ 2 「ノイエ・タンツ」

2006年04月09日 15時57分57秒 | Weblog
 高校生のころドストエフスキーの『罪と罰』に代表されるロシア文学・『赤と黒』に代表されるフランス文学、そして『悪の華』に代表されるボードレールやマラルメ、ヴァレリーなどの詩を読んでいた。読むと言うよりは、いっぱしの文学少女気取りで、本を小脇に歩く姿に憧れてのことだった。
 そういう風潮が残っている時代に、10代後半を生きていた。
 さらに生意気だったのは、「神は死んだ」というような言葉の響きに、なんともいえない心地よさを感じていたのだから、今にして思えば気恥ずかしくなることこの上ない。

 さて、ピナ・バウシュの続き。
「春の祭典」の演出とダンスを見て最初に浮かんだことは、この「神は死んだ」という言葉だった。
 たとえば『あめりか物語』『ふらんす物語』が出世作となった永井荷風は、「キリスト教はわからない」と発言している。キリスト教がわからなければ、西洋文化は理解できるものではないと言い放って、日本回帰のなかの江戸回帰してしまうのだった。

 音楽でもバッハを弾こうとすると壁に当たる。
 マタイ受難曲やおおくのオルガン曲を聴きながら、キリスト教に突き当たってしまう。
 神が死ぬ前に、神がいないのだから、死ぬも生きるもないのだが、試験となれば弾かなければならなかった。
 いたって前近代の価値観が残っている家に育った身には、わかったような風をつくろって、とりあえず音を拾ってバッハの課題曲を弾いていただけだったと思う。

 ピナ・バウシュの舞台を見ながら、死ぬべき神がいた文化に育った人の作品だということを感じさせてもらったのは、そういう自分の過去に照らしたからだった。
 ピナ本人に宗教的信仰心があるかないかにかかわらず、ヨーロッパ・ドイツに生まれ育ったということが、意識・無意識・下意識にキリスト教の「神」と無関係ではなかった「呼吸」のようなものを感じた。
 
 だから「春の祭典」が、アンチクラシックバレーとして、ものすごいエネルギーを得ていたのだと、羨ましく思いながら見続けていた。
 ドイツ音楽の系譜に対抗する民族意識の高まりのなかで、自分の音楽言語によって作曲された「春の祭典」は、ストラビンスキー会心の名曲だ。
 その曲をもとにダンス芸術にしつらえるにあったって、余分なものをそぎ落とした象徴的な舞台演出に徹したこの作品は、ストラビンスキーの音楽に新たな神の命を吹き込んだ。
 そうした意味で、20世紀・西洋が生んだ舞台芸術の世界遺産といいたいのだ。

 さて、今回の舞台から野口体操に流れ込んでいる「ノイエ・タンツ」の系譜に気付かされたことを記しておきたい。
 江口隆哉氏との出会いは、野口三千三にとって大きなターニングポイントであったことは間違いないと思う。
 アップシュパネン、つまり「弛緩」すること、力を抜くことの積極的な意味が、野口体操のコアになっていくきっかけにノイエ・タンツがあった。
 しかし、アップシュパネンとは異質の感性による「力を抜くこと」に、野口体操は到達したのだと思っている。
 
 そのことを確信させてもらえた「春の祭典」「カフェ・ミュラー」の初日の舞台に立ち会えたことは幸運だった。
コメント
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