「音楽で泣いているみたい」
きたむらさんのブログ「健康誌デスク、ときどきギタリスト」に、そうコメントを書き入れたことがある。
映画・テレビドラマ・演劇……、泣かされるのは音楽に負うところが大きい。
昨日「NHK日曜美術館30年展」の話で、解説のない作品も、音声解説ガイドの音楽を流しながら見て歩いたと書いた。
その話をする前に、解説について書いておきたい。
音声ガイドの解説は短い。しかし、どの作品に対するものにも、的をはずさない内容だった。
それだけでなく、コメントの最後に、余韻を残す短い言葉が加えられている。
たとえば樋口一葉の「たけくらべ」のような感じ。
「ある霜の朝水仙の作り花を格子門のそとより差し入れ置きし者ありけり……聞くともなしに伝へ聞くその明けの日は信如が何がしかの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ」
決して一葉風の擬古文ではないが、こんな感じを抱かせる結びだった。
そしていくつかの解説にあったBGMが、厳選されたものだった。
そこで、全く関係のない作品をみながら、音声ガイドの音楽を聞いていたのだった。そのとき何故、解説の言葉が気にならなかったのか? どういうことかと後になって思い返してみた。
解説の意味を理解しようとせずに、音楽の中に「声の楽器」として溶け込ませてしまう。ただし、解説をする女性の声と話し方が好かったからできたのだと思う。
この経験は、外国語のオペラを聞くときによくやっている。言葉のひとつひとつの意味はわからなくても、言葉の意味を超えて歌に魅せられるのでオペラを楽しむことができる。すると聞こえてくるのは、器楽曲に近づいてくる。10代のころ、この体験をずいぶんしてきた。
その聞き方と似ていて、音楽のなかに声を溶け込ませると、逆に音楽がフォーカスされてくる。
そこで、解説がない作品には、記憶していた音楽のうち、直感的に合うナンバーを打ち込んで、音楽を流しながら聞くと美術作品を感じる「感覚」に奥行きが加味されるってわけだ。
突発性難聴を患ってからは、言葉を聞きたいときにBGMがあると、聴きづらく不快感を持つようになった。
それ以前、ドラマなどでは、いい音楽が流れると、物語の筋を離れて音楽だけを聴いてしまう習性がもともとあった。今でもそうすることがたびたびあるのだが。
そういえば、本だったか、雑誌だったか、忘れてしまったが、「ウォークマン」が出始めたころのこと。
「毎日、乗っている電車のなかで、自分の好きな音楽を聴いてみた。すると、見慣れた風景がまったく違って見えて驚いた。ウォークマンってすごい」ということを書いている人がいた。その人の名前も忘れてしまった。
もうひとつ。
野口三千三先生の「野口三千三授業記録」のビデオを編集するときに、映像に音楽をつけてもらった。最後に行う選曲は、楽しかったし、疲れきった感覚に心地よい風に乗った空気が流れ込む快感を味わっていた。あるとき、佐治嘉隆さんは、音楽をつける同じ映像に何種類かのBGMをのせたテストバージョンを作ってくださったことがあった。
あくまでも主観に過ぎないのだけれど、思っていた曲や想像していた曲よりも、予想を超えて、思いがけない曲が映像に合うことがあった。
がかなり逸れてきたので、話を戻そう。
つまり、絵画・彫刻・陶芸といった作品を見るときに、自分の気分にあった音楽があると、違った味わいができるということを、昨日、体験したことを話したかった。
静かな空間で純粋に作品と対峙する意味は、全く別の味わい方で、こちらの方が基本だと思っている。
ただし、「日曜美術館30年展」という展示会は、テレビ媒体の作品と放送された内容がブラウン管(←死語になりつつある)から飛び出した空間だから、作品と音楽というマッチングがごく自然だったのかもしれない。
これも新しい美術鑑賞の在り方のひとつだと思った。
きたむらさんのブログ「健康誌デスク、ときどきギタリスト」に、そうコメントを書き入れたことがある。
映画・テレビドラマ・演劇……、泣かされるのは音楽に負うところが大きい。
昨日「NHK日曜美術館30年展」の話で、解説のない作品も、音声解説ガイドの音楽を流しながら見て歩いたと書いた。
その話をする前に、解説について書いておきたい。
音声ガイドの解説は短い。しかし、どの作品に対するものにも、的をはずさない内容だった。
それだけでなく、コメントの最後に、余韻を残す短い言葉が加えられている。
たとえば樋口一葉の「たけくらべ」のような感じ。
「ある霜の朝水仙の作り花を格子門のそとより差し入れ置きし者ありけり……聞くともなしに伝へ聞くその明けの日は信如が何がしかの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ」
決して一葉風の擬古文ではないが、こんな感じを抱かせる結びだった。
そしていくつかの解説にあったBGMが、厳選されたものだった。
そこで、全く関係のない作品をみながら、音声ガイドの音楽を聞いていたのだった。そのとき何故、解説の言葉が気にならなかったのか? どういうことかと後になって思い返してみた。
解説の意味を理解しようとせずに、音楽の中に「声の楽器」として溶け込ませてしまう。ただし、解説をする女性の声と話し方が好かったからできたのだと思う。
この経験は、外国語のオペラを聞くときによくやっている。言葉のひとつひとつの意味はわからなくても、言葉の意味を超えて歌に魅せられるのでオペラを楽しむことができる。すると聞こえてくるのは、器楽曲に近づいてくる。10代のころ、この体験をずいぶんしてきた。
その聞き方と似ていて、音楽のなかに声を溶け込ませると、逆に音楽がフォーカスされてくる。
そこで、解説がない作品には、記憶していた音楽のうち、直感的に合うナンバーを打ち込んで、音楽を流しながら聞くと美術作品を感じる「感覚」に奥行きが加味されるってわけだ。
突発性難聴を患ってからは、言葉を聞きたいときにBGMがあると、聴きづらく不快感を持つようになった。
それ以前、ドラマなどでは、いい音楽が流れると、物語の筋を離れて音楽だけを聴いてしまう習性がもともとあった。今でもそうすることがたびたびあるのだが。
そういえば、本だったか、雑誌だったか、忘れてしまったが、「ウォークマン」が出始めたころのこと。
「毎日、乗っている電車のなかで、自分の好きな音楽を聴いてみた。すると、見慣れた風景がまったく違って見えて驚いた。ウォークマンってすごい」ということを書いている人がいた。その人の名前も忘れてしまった。
もうひとつ。
野口三千三先生の「野口三千三授業記録」のビデオを編集するときに、映像に音楽をつけてもらった。最後に行う選曲は、楽しかったし、疲れきった感覚に心地よい風に乗った空気が流れ込む快感を味わっていた。あるとき、佐治嘉隆さんは、音楽をつける同じ映像に何種類かのBGMをのせたテストバージョンを作ってくださったことがあった。
あくまでも主観に過ぎないのだけれど、思っていた曲や想像していた曲よりも、予想を超えて、思いがけない曲が映像に合うことがあった。
がかなり逸れてきたので、話を戻そう。
つまり、絵画・彫刻・陶芸といった作品を見るときに、自分の気分にあった音楽があると、違った味わいができるということを、昨日、体験したことを話したかった。
静かな空間で純粋に作品と対峙する意味は、全く別の味わい方で、こちらの方が基本だと思っている。
ただし、「日曜美術館30年展」という展示会は、テレビ媒体の作品と放送された内容がブラウン管(←死語になりつつある)から飛び出した空間だから、作品と音楽というマッチングがごく自然だったのかもしれない。
これも新しい美術鑑賞の在り方のひとつだと思った。