羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

記録を残すということ

2006年11月21日 14時23分32秒 | Weblog
 
 今日は、朝日カルチャーセンター火曜日のレッスンだった。
 思いがけず、大演説をしてしまった。
 何の話かというと、野口三千三先生の記録を残すことの意味について。
 かなり熱く語った。
 
 実は野口三千三先生が亡くなる10年前に、「野口三千三授業記録の会」を立ち上げて、ビデオを中心とした記録を残してきた。
 没後は、そうした記録を埋もれさせないためにも、社会的にある程度認知されなければ、残した意味がないと考えて、活動を続けてきた。

 たまたま今期、ドイツから一時帰国されていたピアニストの女性が、このクラスに参加され、今日が最後の参加可能な日ということも手伝って、野口体操の本質的な意味を時間をかけてお伝えした。彼女は、その点をよく理解されておられたようだ。

 ところで、「世界広しといえども、野口体操のような世界は見当たらない」と、指摘されたのは鴻上尚史氏だった。イギリスでの体験や、ヨーロッパの状況をみても、野口体操のようなものは少ないという。

 ドイツから一時帰国のこの方も、ドイツで研究している「音楽家にとっての身体」に、野口体操と共感できるところが多々あることを話されておられた。
 単にオリエンタルなもの・エキゾチックなもの・東洋的な神秘ではなく、本質的な興味が、野口体操に向けられるだろうというご指摘も受けた。

 とリアわけ『DVDブック アーカイブス野口体操ー野口三千三+養老孟司』は、ドイツに持っていっても、十分に通用する内容だというニュアンスの表情をなさっておられた。

 正直言って、昨日のブログ「おくのほそ道」に書いた多神教の世界観を持つ野口体操が、ヨーロッパの国々にどのような理解が可能なのだろうかと、ふと、思ってしまった。それだけに興味は尽きない。

 これからの課題をいただいた今日のレッスンだったが、全体を通して、聞いてくださる方々の真剣なまなざしを見出して、次第に熱を帯びる自分を感じていた。
 これからだ! という気持ちが強くなってきた。簡単に結論付けるのは、まだまだ危険であるが、これなら若い方々を引き入れてもいいのかしら、と少し思ったりもする。実際は難しいことを承知しているのだが。
 いずれにしても「身体」や「身体論」を取り巻く状況が、世界的に流動化しているのを、最近、頓に感じるようなった。それは私にもたらされる情報によるところが大きい。

 さて、今日の写真は、大学のチャペルの窓。
 濃い茶色い太く大きな木の梁がいくつもむき出しになっていて、白い漆喰の壁が梁と梁の間にある古いチャペルは、東京の建築物として残しいきたいものの一つである。
(ものを残すのも大変だが、形として残らず瞬時に消えるからだの動きや、野口先生がなさったような授業、体操を残すことも、いずれも大変なことだ)
 
 チャペルに座して、何かよい方法はないものか、と考えをめぐらせることがある。
 ところが、窓から差し込む太陽の光に、意識が遠のく。
 あくせくしてもはじまらない……と、一息入れる。

 実は、この界隈、江戸川乱歩の蔵のある家があり、自由学園の「明日館」もあり、そのほかにも由緒ある古い建物がいくつも残っている。東京の雑踏にあって、捨てがたい情趣を醸し出してくれている。
 空襲で焼けなかったことが幸いなのだ。一度、破壊されれば、二度とつくることはできない。否、形は再現できたとしても、建物にまつわる「時間」は戻らないのだ。
 
 文化とは、生半なことではない、と、身にしみる昨今である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする