羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

ブログ「身体感覚をひらく」に感ずることあれこれ

2007年02月18日 19時29分36秒 | Weblog
 今日アップした動画は、「やすらぎの動き」で、対話しながらほぐすものだった。
 この動画をご覧になってお気づきと思うが、野口体操のいちばんの基本は「上体のぶら下げ」だが、立った状態だけでなく床に腰を下ろした状態でも「上体のぶら下げ対話」なのだ。
 
 実はどなたも同じ感想をもたれるのだけれど
「ブログに体操する自分の姿が載ると、とても勉強になります」とか
「自分がイメージしているのと、見えてくる動きが違って、改めて動きを確かめるきっかけになります」とか
「最初は恥ずかしくてしっかり見られないけれど、何度も繰り返し見ているうちに、隅々まで見えてくる」等々。

 野口体操では客観より主観、そのとき自分が感じる実感を手がかりにすることを大切にしている。しかし、パソコンであったり、携帯であったり、見るものは何でもいいけれど、動きを外側に出して見ることから得られる新鮮な感覚も捨てがたい。いや、それ以上の意味があるようだ。
 岩波ジュニア新書『身体感覚をひらく』にリンクしている動画ブログに、予想外のおまけがついた。出演者の方からいただくこのような感想は、始める前には思ってもいなかった。

 昨日、「逆立ち」を撮影した。
 撮りなおすうちに結局のところ佐治嘉隆さんがいよいよご登場となった。

 さて、今日の話に戻すと、私の後ろで「やすらぎの動き対話」をしてくださっている男性の位置のとり方が絶妙なのである。衣装も濃紺だったからかもしれないが、歌舞伎や日本舞踊などの「黒子」の位置かもしれない、とおもいつつ見ていた。
 が、しかし、観ているうちに「これは「人形浄瑠璃」の世界に近いと思えてきた。「文楽」は、日常の空間から劇場に入って、演目がはじまってしばらくは人形に集中できないで、雑駁な感性で見ることがある。それが太棹の音・浄瑠璃語りの情念に引き込まれ、次第に人形に命が宿るころには操る人の存在が見えなくなりながら、しかしそこにいることが邪魔でなくしっかし見えてくる。
 野口体操の「上体のぶら下げ対話」も「やすらぎ対話」も、話しかける人が文楽の人形遣いのようなあり方になったとき、理想的な関係が生まれる。
 話しかけられている自分では、話し手の動きを見ることは出来ないだけに、こうしてブログ上であらためることが出来て、とても参考になった。

 というわけで今回の新しい試み、つまり本にリンクする動画ブログというのは、編集している私自身にとって、あるいは出演することによって撮影時に実感できることや、ブログ上に載ったところで観ることから得られること等々、収穫の大きな出来事だといえる。
 当事者になってやってみなければ何事もわからない! です。
コメント (2)
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