羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

吉野裕子さんの思い出

2008年05月16日 19時28分09秒 | Weblog
 以前、このブログにも書いたことがある民俗学者の吉野裕子さんが亡くなっておられたことを、今日の日経新聞夕刊「追想録」で知った。
 ちょうどこの時期の私は‘風邪症候群’で、亡くなったことに気づかずに過ごしていた。
 
 しかし、人文書院から『吉野裕子全集』が出版されることは、新聞の広告欄でみていた記憶が残っている。今日の夕方まで、お元気なことと思い続けていたのだった。
 記事には最終第十二巻の‘後書’を書き終えたところで「肩の荷を下ろすように息を引き取った」と編集者の谷誠二さんの言葉が載っていた。

 五十歳からこの道に入られて、もの凄い量の本を次々と執筆出版された。
 細身のからだのどこにこれほどのエネルギーが隠されているのかと、その秘密に迫りたかった。
 
 朝日新聞の第一面下にある書籍広告で『蛇』という書名の本を見つけて、すぐさま2冊を買い求め、一冊を野口先生にお渡しした。
 そのことがきっかけで、当時は目白にお住まいだったので、二度ほどお訪ねしたことがあった。もちろん野口先生が電話を直接かけて、お目にかかっていただくことになったのは、かれこれ三十年近く前のことだった。

 ご主人と二人で応対してくださった吉野さんは、六十代だったと記憶している。
 この出会いによって野口先生とともに私自身が、民俗学・民族学に興味を抱くきっかけとなり、先生の「蛇」への思いはますます深くなっていった。

「禊は、身を殺ぐことだと、僕は常々言っているんです」
 野口先生が会話の口火を切った。
「私もそう思っておりますの」
「蛇は脱皮に失敗すると命を落とすんです」
「そうですわ。禊は殺ぐことなんですよね」

 当然といえば当然のことなのだが、野口先生の甲骨文字解釈は、吉野民俗学に触れることで自信を深めていったことを私はつぶさに見ていた。
 その日、お二人は短い時間に打解けてしまわれた。
 旧知の間柄のように話を次へと展開させていった。
 傍ではご主人が英国紳士の雰囲気を漂わせながら、二人を優しく見つめておられた。
 日本の蛇信仰、基底文化、民俗信仰が、どのように中国の陰陽五行説によって整理されていくのか、当時はその後の明快な学説が萌芽を見せはじめている頃だった。

 その後、七十代、八十代を迎えて、見事な論を展開されたエネルギーは、女の底力を見せつけるものだった。

 最後にお話を伺ったのは、二十年以上前のことだろうか。
「西大寺のマンションを手に入れましたの。これから居を移して研究に本腰を入れたいと思って……」
 受話器の向こうから響いてくる声は、その後の研究への期待からか、若々しく張りがあったことを思い出す。

 その電話で吉野さんからすすめられた本が、『武則天』中国で唯一の女帝の物語だったことは以前にも書いた記憶がある。
 文庫本で八巻からなる本は著者が餓死に陥りそうな寸前に書き終えたものだった。
「これを読めば日本の古代がよくわかりますよ」

 そしてこの本と白川静『字統』と『字訓』を照らし合わせると、日本文化はまさに中国の歴史の写し絵のようだ。
 大化の改新における律令制度導入に始まる日本の「中国化」つまり中国化された古代日本は、精神生活や感情生活においても隅々中国化が浸透していくことが面白いくらいに理解できるのである。

 唐帝国は日本を衛星国家として一日も早く野蛮国を脱却させるべく「王化政治」を布(し)かせようと図ったと『日本的自然観の研究』斎藤正二は書いている。
 冊封(さくほう)体制システムによって日本を衛星国にしていく過程が読み取れるのである。

 中国化が日本の基層文化、とりわけ信仰にどのような影響をもたらしたのか、吉野さんの研究は、晩年に佳境に入った。

「夫が職を失って、易者のもとを尋ねたのが陰陽五行に入っていく一つのきっかけでしたの」
 扇の民俗学的研究は、日本舞踊を習い始めた五十代からだとおっしゃる。
 蛇研究はご自身の旧姓「赤池」に由来するとも語られていた。
 ある意味でご自身の身近なところから研究テーマを発展させておられた。
 当時から私はこの点に、男性的にズバリと切り取って書かれる内容とは表裏にある女性としての‘しぶとさ’を感じていた。

 享年九十一歳。
 人生後半は、見事に一筋の道を迷うことなくじっくりと歩かれた。
 合掌。

 
 ※因みに、「冊封」とは、中国の王朝が周辺諸民族の国王に称号を与えること。
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