二泊三日の伊豆への旅は、好天に恵まれた。
4月30日9時に東京駅を出発して、5月2日4時半に自宅に戻った。
交通機関は、どの路線も混雑とは無縁の旅であった。
旅の目的の一つは、水中に浮かびながら、リラクゼーション+ストレッチ+マッサージ(?)を受けることだった。
水深1メートル20センチ、広さは5メートル四方くらいの立ち湯。
温泉の温度は37度くらいに設定されている。
天井は高く、窓から柔らかな光が入ってくる空間である。
「最近、泳いだりされました」
最初の質問だった。
「いえ、海だったり、プールだったり、泳いだのは中学生くらいだったと・・・・・」
驚きを隠しながら
「時に車酔いのようになる方もいらっしゃいますから、遠慮せずになんでも言葉にしてください」
「足が浮いてしまいます」
「それならば大丈夫かもしれません。はじめしょう」
仰向けになってフワフワと体が浮き、耳が湯に浸される。
終始目を閉じて、ゆらゆら感に任せている。
手や足が様々に伸ばされたり縮められた。
左右、上下に揺すられて、ただ任せる。
それだけ。
「相当に力が抜けて浮かんでいるのだけれど、鳩尾の中の方がなぜか緩まないー」
1回目は最後まで緩まなかった。
2回目の時には、そんなことも感じもしないまま、かなり緩められていたと思う。
細かいことはレッスンでお話ししたい。
気づいたことをまとめておくとしよう。
「肺は浮き袋である」
息をたっぷり吸うと、からだは自然に浮き上がる。息を吐き切ると沈み込む。
「耳が水中にあるときの音の世界と水中から出ているときの音の世界は、まるで違う風景を感じさせてくれる」
片方だけ耳が水中から出ていると、両方の世界を同時に味わえる。
「時間が経過するうちに、水中にある耳が脈の音を聞くようになる」
自分の脈の音かと思ったが、終わってから伺うと、そうではないことは判明。終始、腕で支えられているので、触れている耳が脈を感じ取ったようだった。驚きの体験だった。
「水中から出ている体の部分が、ひんやりしてくる」
37度の温度と外気温の違いが、時間の経過につれてその差を敏感に感じられるようなる。
2回目の方が、より力が抜けて、上がったときのからだの重さをより強く感じた。
いちばんの印象を一言でいえば、
”赤ちゃんが母親の胎内から生まれ出たときの既視感的皮膚感覚を味わった”
「音の世界は急に多様になるだけでなく、鮮明になる」
「ただし母親の心臓の脈動は聞こえなくなる」
「外の空気や風にさらされる皮膚感覚はちょっと刺すようで、冷たいー」
「からだは重いよ!」
言葉にならなくても、これが最初に意識として残る深い感覚だと思った。
そうだ、誕生の瞬間に赤子が感じることは、きっとこんな感じに違いない。
いやいや、こんな風に後から冷静に言ってみたけれど、その時はひたすら任せきって気持ちよかったのであります。
「最初からよく力が抜けますね」
言葉に誘導されて、一回目を終えた時に、内緒にしていた野口体操を白状してしまった。
「寝にょろ」と「上体のぶら下げ対話」と「野口流マッサージ」を温泉に浮かびながら受ける感じかな〜〜〜。。。。。。
ちょっと違うけれど、共通点も多い。
「WATSU」という療法でした。
*******
旅の予期せぬプラスα
一泊目の夜には、ニューヨークとチューリッヒに長く駐在されていたという男性と、昭和の時代を代表する山水ステレオでクラシックやジャズを聞きながら語りあった。
二日目には、同じ男性と宿のご主人が加わって、3名で蓄音機を囲んでベートーベン「田園」や「テネシーワルツ」など何曲かを聞くミニコンサート。
ご主人が入れてくださったモーニングコーヒーは美味だった。
音楽のこと、美術のこと、「井上靖『中国行軍日記』」、「井上靖の戦争体験」「現代の中国事情」、諸々、年齢が近く共通の文化的な土壌もあってか、会話は楽しかった。
詳しくは、レッスンで。。。。。。
場所は↓
「船原館」
4月30日9時に東京駅を出発して、5月2日4時半に自宅に戻った。
交通機関は、どの路線も混雑とは無縁の旅であった。
旅の目的の一つは、水中に浮かびながら、リラクゼーション+ストレッチ+マッサージ(?)を受けることだった。
水深1メートル20センチ、広さは5メートル四方くらいの立ち湯。
温泉の温度は37度くらいに設定されている。
天井は高く、窓から柔らかな光が入ってくる空間である。
「最近、泳いだりされました」
最初の質問だった。
「いえ、海だったり、プールだったり、泳いだのは中学生くらいだったと・・・・・」
驚きを隠しながら
「時に車酔いのようになる方もいらっしゃいますから、遠慮せずになんでも言葉にしてください」
「足が浮いてしまいます」
「それならば大丈夫かもしれません。はじめしょう」
仰向けになってフワフワと体が浮き、耳が湯に浸される。
終始目を閉じて、ゆらゆら感に任せている。
手や足が様々に伸ばされたり縮められた。
左右、上下に揺すられて、ただ任せる。
それだけ。
「相当に力が抜けて浮かんでいるのだけれど、鳩尾の中の方がなぜか緩まないー」
1回目は最後まで緩まなかった。
2回目の時には、そんなことも感じもしないまま、かなり緩められていたと思う。
細かいことはレッスンでお話ししたい。
気づいたことをまとめておくとしよう。
「肺は浮き袋である」
息をたっぷり吸うと、からだは自然に浮き上がる。息を吐き切ると沈み込む。
「耳が水中にあるときの音の世界と水中から出ているときの音の世界は、まるで違う風景を感じさせてくれる」
片方だけ耳が水中から出ていると、両方の世界を同時に味わえる。
「時間が経過するうちに、水中にある耳が脈の音を聞くようになる」
自分の脈の音かと思ったが、終わってから伺うと、そうではないことは判明。終始、腕で支えられているので、触れている耳が脈を感じ取ったようだった。驚きの体験だった。
「水中から出ている体の部分が、ひんやりしてくる」
37度の温度と外気温の違いが、時間の経過につれてその差を敏感に感じられるようなる。
2回目の方が、より力が抜けて、上がったときのからだの重さをより強く感じた。
いちばんの印象を一言でいえば、
”赤ちゃんが母親の胎内から生まれ出たときの既視感的皮膚感覚を味わった”
「音の世界は急に多様になるだけでなく、鮮明になる」
「ただし母親の心臓の脈動は聞こえなくなる」
「外の空気や風にさらされる皮膚感覚はちょっと刺すようで、冷たいー」
「からだは重いよ!」
言葉にならなくても、これが最初に意識として残る深い感覚だと思った。
そうだ、誕生の瞬間に赤子が感じることは、きっとこんな感じに違いない。
いやいや、こんな風に後から冷静に言ってみたけれど、その時はひたすら任せきって気持ちよかったのであります。
「最初からよく力が抜けますね」
言葉に誘導されて、一回目を終えた時に、内緒にしていた野口体操を白状してしまった。
「寝にょろ」と「上体のぶら下げ対話」と「野口流マッサージ」を温泉に浮かびながら受ける感じかな〜〜〜。。。。。。
ちょっと違うけれど、共通点も多い。
「WATSU」という療法でした。
*******
旅の予期せぬプラスα
一泊目の夜には、ニューヨークとチューリッヒに長く駐在されていたという男性と、昭和の時代を代表する山水ステレオでクラシックやジャズを聞きながら語りあった。
二日目には、同じ男性と宿のご主人が加わって、3名で蓄音機を囲んでベートーベン「田園」や「テネシーワルツ」など何曲かを聞くミニコンサート。
ご主人が入れてくださったモーニングコーヒーは美味だった。
音楽のこと、美術のこと、「井上靖『中国行軍日記』」、「井上靖の戦争体験」「現代の中国事情」、諸々、年齢が近く共通の文化的な土壌もあってか、会話は楽しかった。
詳しくは、レッスンで。。。。。。
場所は↓
「船原館」