羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

坐禅 ふたたび 十二日目

2019年05月21日 09時14分36秒 | Weblog

本日は、前半の50回を数える間は、いい感じの呼吸が続いていた。

落ち着いて、ある一定の心地よいリズムで、息が吐けたのでである。

ところが後半の50回に入った途端に、背骨の伸びが急に変形して行った。

同時に呼吸が崩れるのである。

さらに30回を過ぎるころには、腕の痛みを感じて、そのままの姿勢での中で、腕を少しずつ動かしてしまった。

なんとか最後の50回目を吐ききって、それから数えることはせずに、しばらく坐り続けた。

ゆっくり脚を崩して、このままでいけない、と床に座した姿勢や、仰向け姿勢等々、座禅を始める前に行なっていた体操に戻ってみた。

はて、なぜだろう。

最初に行った時よりもよくほぐれるのである。

よく伸びるのである。

短い時間だったが、気持ちよく体操ができたのだ。

同じ繰り返しだが、これほどまでの違いに、驚いている。

 

座禅の間、「死語」になった言葉について考えていた。

言葉が失われるということは、実態・実体が失われること。

「ひかがみ(膕)」「東亜」「省線」

バラバラな言葉たちだが、土曜日・日曜日のレッスンで、意味を説明し、体操で試し、また「時刻表」を見ていただいて、私の中で深まって行くのを感じている。

特に「ひかがみ(膕)」については、なかなかの発見があった。

この件は、改めて書きます。

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