電話が鳴った。
「今、慶応病院から電話しています」
「えッ、どうなさったのですが、こんな時間に・・・・」
「胃がんなんです。明日、手術です」
「それは、なんと申し上げていいのやら」
「あのー、必ず生きて、また、お宅を尋ねます。待っていてください」
急な知らせであった。
それからかなりの時間がすぎていった。
待てど暮らせど、来訪の兆しは見えない。
意を決して、ご自宅に電話を入れた。
「はい、家内でございます。主人は、亡くなりました。スキル胃がんでした」
一瞬、目の前が真っ白になって、どんなお悔やみの言葉を発したのか、まったく覚えていない。
ただ、まだ幼いお嬢さんを残して、無念の死であった、と伺った。
享年、48歳。
彼が私のもとを訪ねてきたのは、日経新聞朝刊「私の履歴書」に、野口三千三を登場させる可能性を探るためであった。
話すうちに、彼の気持ちが固まった。
社内の企画会議で提案をスムーズに通すために、手助けをして欲しい。
依頼を受けて、お偉い方々を説得するための方策を練る、その手伝いを始めていた。
情報交換し、資料を準備し始めた矢先のことだった。
野口先生には内緒で動き始めていたのだ。
彼は、「日本人の脳」右脳左脳の研究者・角田氏を世に出した新聞記者だという。
まだ、知られていない人を、どのように世の中に出してくのか、切々と語ってくれたことを思い出した。
今朝、私は「私の履歴書」群馬県出身の石原信雄を読んでいた時のこと。
第6話 占領下の地方制度改革の話で、教育行政についての記述が非常に参考になる、と思って切り抜きをしていると、その記者さんの顔がふと浮かんできたのだった。
・・・・・幼くして父親をなくされたお嬢さんも、結婚されているだろう・・・・・
なんとも言葉にならない思いが胸に迫った。
つくづく、野口先生を通して、私は、いろいろな方に巡り会ってきたのだ、と。
繋がらなかった縁も、それはそれで貴重だ。
こうして、かけがいのない出会いがあり別れがあって、今の自分がしていることがある。
野口先生の足跡を追っているこの2年間を思いかえすと、その記者さんが話してくれたことが、通奏低音として鳴っているのだと気づいた。
「三千三伝」 最終章までの道のりは、まだまだ遠い。