正確な年月日は失念している。
ある日、としておこう。
日経新聞・文化欄担当の記者さんが拙宅に訪ねて来た。
「角田忠信さん、ご存じですよね」
「はい、右脳・左脳 『日本人の脳』を書かれた方ですよね。野口先生も皆さんに角田さんの本を薦めておられました」
「ええ、実は、私が彼を世の中に出しました。といっても五流新聞社の我が社ではなく、一流の他社さんにお願いしましたが・・・・・」
「そうですか、色々なやりようがあるんですね」
「そこで、ご相談です。野口さんに『私の履歴書』に登場していただこうと思っています」
「まぁ、嬉しいお話!」
「でも、お偉方を納得させられるだけの資料を揃えないと、話は始まりません」
「わかりました。で、何をどのようにればよろしいの」
間髪を入れず、私は答えた。
それから、電話や手紙でやりとりを始めた。
ところが数ヶ月経ったある晩のこと。
一本の電話が入った。
「今、慶應病院に入院しています。明日、手術を受けます」
「ご病気?」
「胃がんです」
しばらくの沈黙。
「羽鳥さん! 必ず生きて帰ります。おたずねします。待っていてください」
年が明けた。
彼の奥様から、スキルスがんで亡くなったことを知らされた。
まだ、小学生の一人娘さんを残してのことだ、と。
あれから25、26年以上は過ぎただろうか。
今頃、お嬢さんは良き妻、良き母、良き仕事人になっているかもしれない。
そう願っている。
私家版『野口三千三伝』を書きつづける私を、後押ししてくれる出来事の一つである。
今、書きながら、変人・奇人と自他ともに認める“体操教師の生き様”に、人としての普遍に通じる道があるのか、探している途上。
ブログに載せたこの写真は、養老先生との対談が危うく流れそうになったものの1991年1月に朝日カルチャーセンター・新宿で実現した『野口体操を解剖する』の一コマである。
日程も決まった。
募集も始まってすぐに満員になっていた。
正月3日のこと。
「新聞に書かれていた養老先生の普遍に対する考えが、僕とは違うからやりません」
「先生、それって屁理屈です。逃げないでくださいッ」
・・・・・・・沈黙
・・・・・・・沈黙
・・・・・・・沈黙・・・・・・・
「仕方がない、企画したあなたのためにやってあげる」
・・・・・・・ありがとうございます、と言ったかどうか、覚えていない。
確かに、野口三千三の人生のテーマは「個別と普遍」かも。
今になって思う。