この本を読み終わって、思い出したことがある。
一昨日に書いた父の交通事故のときのことだ。
辻堂の病院に入院して、家族はもちろんのこと、父方・母方双方の祖父母から両親の伯父や伯母、そして甥までもが見舞いに飛んでいった。
病院の様子を見て
「この病院では、死んでしまう」
誰ともなく発した言葉を医者が聞きつけてしまったらしい。
そこで少し離れたところにあった病院に転院することになった。
命を助けよう。なぜなら母子家庭にしてはいけない、というのが大きな理由だったそうだ。そしてできるだけそれまでの生活が維持できるところまで回復させるための治療をしてもらうというのが、全員一致した結論だったそうだ。
昭和32年当時、その手術で問題になるのは、麻酔技術だった。
「そこまでおっしゃるなら、東京から麻酔医と外科の助手を連れてきてほしい」
当時としては二人しかいなかったアメリカ帰りの麻酔医一人と同じ大学病院の助手を車に乗せて、辻堂まで国道を疾走したのだという。
小学校2年だった私は、両親の知人一家とともに、東海道線に乗って辻堂へ向かった記憶がある。東京駅のホームを駆け上がって、タラップに飛び乗るとすぐさま発車したことだけが鮮明に残っている。あたりはすでに暮れかかっていた。
病室に入ると父は畳の上に寝かされていた。今になって表現すれば、ピエタ像のような父の姿が目の奥に焼き付いている。入院期間は、かなり長かった。その間、近所で懇意にしている家族や、知人や、親戚の人たちが面倒を見てくれて、暮らしに不自由はなかった。
九死に一生を得た父は、暮らしを取り戻すことが出来た。
「この人を死なせたくない。母子家庭にはしたくない」
皆の思いは強烈だった。
幼い私にも、生死の問題では「現状維持」を可能にするということは、ものすごくエネルギーがいることが理解できた。経済的な裏づけもさることながら、大勢の人の思いが一致し行動をともなって、その方向に働かなければ実現しない。
ここまでの話を善いが悪いかという価値基準で書いているつもりはない。そういう出来事が、昭和30年代初めの我が家に起こって、子供だった私だが自分なりに考えるところがあった。
―ビジネスでは「破産をしない」というオプションはない。「現状維持」を選択することは資本主義市場経済においてはほとんど自動的に「没落」を意味する。しかし……内田氏の言説。
数年後には、人様に迷惑をかけないでなんとか暮らしていけるところまでもちなおした。ひとえに親戚や知人が差し伸べてくれる援助あってのことだった。
当時は、迷惑をかけてもそれを当たり前として受け入れてくれる人々がまわりにいた。
その後の両親は、親戚はもちろん知人や友人や他人に対しても、出来ることは惜しまずにやっていたように思う。いまだに我が家を実家のように慕ってくる方々がおられるのだから。
そのことを通して、何十もの入れ子構造リスクを回避するには、「現状維持」という感覚がなければならないということが、幼心にも染み付いていったのだと、『下流志向』を読むことで気づかされた。
実は、「現状維持」ということは凄く大変なことなのだ。
丁か半かという基準でものを見ない。丁か半かで行動をとらない。二者択一ではない日常的感覚は、簡単にはキレない我慢強さとある種の成熟から生み出されることを教えられたような気がしている。
勝ち組・負け組みと言い放ってしまえば簡単だ。
勝ちもしないが負けもしない。ギブ・アンド・テイクの関係でもない。
言ってみれば人生に見返りを想定しない生き方のなかで、豊かさを実感することは可能だ。運良くたまたま生かされた命という時間はかけがいがない。
実は、人は誰でも「運良くたまたま生かされている」のだけれど、それに気づかないだけだ。
その上で、紆余曲折を乗り越えて、破産や破綻はきたさないという生き方を可能にするには、それだけが条件ではないけれど、まずは慎重に腹をくくっていないと出来ないことに違いない。
……もしかして……国だってそれが出来なかったから、戦争へと突き進んでしまったのではないだろうか。そんな思いが脳裏をよぎる……。
キーボードの脇には、二冊の本が置いてある。
今日、読み終わった本は、なかにし礼著『戦場のニーナ』講談社。
次なる本は、保阪正康著『昭和史の教訓―昭和10年代を蘇らせるな』朝日新書。
一昨日に書いた父の交通事故のときのことだ。
辻堂の病院に入院して、家族はもちろんのこと、父方・母方双方の祖父母から両親の伯父や伯母、そして甥までもが見舞いに飛んでいった。
病院の様子を見て
「この病院では、死んでしまう」
誰ともなく発した言葉を医者が聞きつけてしまったらしい。
そこで少し離れたところにあった病院に転院することになった。
命を助けよう。なぜなら母子家庭にしてはいけない、というのが大きな理由だったそうだ。そしてできるだけそれまでの生活が維持できるところまで回復させるための治療をしてもらうというのが、全員一致した結論だったそうだ。
昭和32年当時、その手術で問題になるのは、麻酔技術だった。
「そこまでおっしゃるなら、東京から麻酔医と外科の助手を連れてきてほしい」
当時としては二人しかいなかったアメリカ帰りの麻酔医一人と同じ大学病院の助手を車に乗せて、辻堂まで国道を疾走したのだという。
小学校2年だった私は、両親の知人一家とともに、東海道線に乗って辻堂へ向かった記憶がある。東京駅のホームを駆け上がって、タラップに飛び乗るとすぐさま発車したことだけが鮮明に残っている。あたりはすでに暮れかかっていた。
病室に入ると父は畳の上に寝かされていた。今になって表現すれば、ピエタ像のような父の姿が目の奥に焼き付いている。入院期間は、かなり長かった。その間、近所で懇意にしている家族や、知人や、親戚の人たちが面倒を見てくれて、暮らしに不自由はなかった。
九死に一生を得た父は、暮らしを取り戻すことが出来た。
「この人を死なせたくない。母子家庭にはしたくない」
皆の思いは強烈だった。
幼い私にも、生死の問題では「現状維持」を可能にするということは、ものすごくエネルギーがいることが理解できた。経済的な裏づけもさることながら、大勢の人の思いが一致し行動をともなって、その方向に働かなければ実現しない。
ここまでの話を善いが悪いかという価値基準で書いているつもりはない。そういう出来事が、昭和30年代初めの我が家に起こって、子供だった私だが自分なりに考えるところがあった。
―ビジネスでは「破産をしない」というオプションはない。「現状維持」を選択することは資本主義市場経済においてはほとんど自動的に「没落」を意味する。しかし……内田氏の言説。
数年後には、人様に迷惑をかけないでなんとか暮らしていけるところまでもちなおした。ひとえに親戚や知人が差し伸べてくれる援助あってのことだった。
当時は、迷惑をかけてもそれを当たり前として受け入れてくれる人々がまわりにいた。
その後の両親は、親戚はもちろん知人や友人や他人に対しても、出来ることは惜しまずにやっていたように思う。いまだに我が家を実家のように慕ってくる方々がおられるのだから。
そのことを通して、何十もの入れ子構造リスクを回避するには、「現状維持」という感覚がなければならないということが、幼心にも染み付いていったのだと、『下流志向』を読むことで気づかされた。
実は、「現状維持」ということは凄く大変なことなのだ。
丁か半かという基準でものを見ない。丁か半かで行動をとらない。二者択一ではない日常的感覚は、簡単にはキレない我慢強さとある種の成熟から生み出されることを教えられたような気がしている。
勝ち組・負け組みと言い放ってしまえば簡単だ。
勝ちもしないが負けもしない。ギブ・アンド・テイクの関係でもない。
言ってみれば人生に見返りを想定しない生き方のなかで、豊かさを実感することは可能だ。運良くたまたま生かされた命という時間はかけがいがない。
実は、人は誰でも「運良くたまたま生かされている」のだけれど、それに気づかないだけだ。
その上で、紆余曲折を乗り越えて、破産や破綻はきたさないという生き方を可能にするには、それだけが条件ではないけれど、まずは慎重に腹をくくっていないと出来ないことに違いない。
……もしかして……国だってそれが出来なかったから、戦争へと突き進んでしまったのではないだろうか。そんな思いが脳裏をよぎる……。
キーボードの脇には、二冊の本が置いてある。
今日、読み終わった本は、なかにし礼著『戦場のニーナ』講談社。
次なる本は、保阪正康著『昭和史の教訓―昭和10年代を蘇らせるな』朝日新書。