羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

静水骨格……生ものの驚異

2012年03月07日 18時55分53秒 | Weblog
 フリー・ジャーナリストのキタムラさんから、一冊の本を紹介された。
『生物学的文明論』本川達雄著 新潮新書423 2011年6月20日発行
『ゾウの時間 ネズミの時間』の著者で、歌う生物学者として有名な方の著書だ。

 一気に読み終えたが、とりわけ第四章「生物と水の関係」が圧巻だった。
 脊椎動物は骨を介して拮抗筋が働き、動きが成立する。
 それに対して水が骨の代わりをする「静水骨格」(静水力学的骨格)の生きものの例としてミミズが登場し、どのようなメカニズムで体全体の移動が可能かが明快に解き明かされていく。ワクワクするところだ。
 ぜひ、ご一読をすすめます。

 で、ここに書かれている大元となった小論文を、以前にすでに読んでいたことを思い出した。
 その本にたどり着く経緯は、次のようなことがきっかけだった。
 正確な日付を失念してしまったが、朝日新聞に田中豊一(たなか とよいち)マサチューセッツ工科大学教授の死亡を伝える記事が載った。生命の起源をゲルに探る研究をしていた優秀な研究者で、はやすぎる死は非常に惜しいという内容だった。さっそく手に入れた本が『生命現象と物理学』北原和夫+田中豊一編 朝倉書店だった。「〈生きもの〉と〈もの〉の間」をテーマとして、八名の研究者の小論文を編んだものだ。
 そのなかに本川達雄氏の「価値・時空・ナマコの皮」も掲載されていたわけだ。
 
 さて、今、NHKラジオ第二放送講演原稿を一般書とした『生物学的文明論』を読んだ後に、専門書に書かれた論文を読み直すと不思議なくらいに理解できるようになった。
 それは不思議ではないのかもしれない。結局のところ、生きものの生態を具体的に解き明かしながら、文明批評を行っているのだが、平易な言葉と興味深い喩えで、語られているからに違いない。
 現代社会を作り上げている技術と貨幣経済の背景に、数学と物理学がある。しかし、数学・物理学的発想ばかりで、今、現在、起こっている数々の問題を解決しようとしてもそれには限界がある。深刻化するだけだ、と柔らかな発想をもって警鐘を鳴らしている。
 生物の本質から見るならば当然おかしいと思えることを、まかり通してしまうことへ誰もが危機感を持つ必要性を訴えていく。巻末に「ナマコ讃歌」(笑)の楽譜をつけるという、硬軟取り揃えているところがミソ!

 実は、文明批評を脇に置いて、生命現象の素晴らしさ面白さを読み取るだけでも、自然に生かされている希有な人間存在、そのものに驚嘆せざるをえない。
 なによりも野口三千三が1972年に著した『原初生命体としての人間』の発想と主張に同じくする通奏低音が、全編を通して鳴っているのだから、面白いことこの上ない。

 と、言うわけで、今週の土曜日は、この第四章の一部をテーマに、「骨の役割」「筋肉の働き」「水の驚異」を「からだとその動きの実感」で探ってみたいと思っている。
 ご紹介いただきありがとうございます。この場を借りてお礼!
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野口体操「鰐腕立て」に共通感覚の「肘立て伏臥(羽鳥の造語)」について

2012年03月06日 09時34分22秒 | Weblog
 先週の土曜日、朝日カルチャーでのレッスンで、はじめて取り入れた動き(姿勢)がある。
 うつ伏せ姿勢をとって力を抜き、全身の重さを床やマットに染み込ませるような感じで緩める。
 まず、そのままのうつ伏せ姿勢で、つま先から踵までを床に対して90度の角度(足の裏を鉛直線に一致させる)で立てる。脚全体は骨盤の幅ですっきり伸ばされていること内側の感覚で探る。
 次に肘から先を伸ばして二の腕(上腕)の骨を床に対して90度の角度(骨の縦軸を鉛直線に一致させる)で立てる。両肘はできるだけ近づける。手は軽く握って親指が天井を向くように左右を合わせる。立った姿勢で祈る時は掌を合わせるが、この場合には他の指の関節は曲げられて丸められた状態で、外側のくるぶしが床に触れるか触れないか位の柔らかさで置かれる。 
 “伏臥のびのび祈り姿勢”をとる為に、全体のバランス感覚(骨格アライメント)を探りながら、腰を床から離し「腕立て伏臥姿勢」ならぬ「肘立て伏臥姿勢」をとる。その姿勢を維持しながら、脚から頭の天頂に、円柱形の柔らかな管をイメージしながら、その姿勢をしばらく維持する。

 この感覚は「鰐腕立て」のはり感と共通である、と気づいたのは、先々週のある日のことだった。
 突っ張りではなく、筋力に頼るのではなく、バランス感覚から生まれる「身体構造維持感覚」とでもいいたい感覚なのだ。
 腹筋だ、背筋だ、などとある部分の筋肉を意識するのではない。全体のはり感によって保たれている構造にとっぷりつかるような感覚。で、中が空洞の円柱形の柔らかいがしっかりした管が長く伸ばされるような感じの中に浸る。
 鉛直方向に「直立」するのとは異なって、伏臥姿勢の場合にはそれ相当の重さを支えるための筋力は働いている。しかし、積極的に働いている感はなくして行いたい。
『筋肉の存在を忘れよ、そのとき筋肉は最高の働きをするであろう』
『意識の存在を忘れよ、そのとき意識は最高の働きをするであろう』
 野口のことばだが、その実感が得られたら、最高なのだ。

 さて、この「肘立て伏臥姿勢」は、腕立てバウンドの基本感覚だ、と気づいた。特に女性には、よい感覚刺激になってくれる。
 また、「野口流ヨガ逆立ち法」の場合も、この感覚が生きてくると、からだの前面(腹側)全体のイメージにはりがもてる。すると何が起こるのか?背中側に緩みが生まれる。前側で支えられると安心して背中側が緩められる。向こう側に倒れる恐怖感を、腹側(前面)で支えられるから、からだの前後で拮抗関係が成り立つ。動いていく方向(背中側)の筋力を出来るだけ使わない感覚で動くには、腹側(からだの前側)に僅かなはり感(支え感)が自然に起こると、腰全体にふわっと回転が起こることになる。

 さて、今日のテーマ「肘立て伏臥(羽鳥の造語)」は祈りの新しい姿勢でもある、と捉えなおせば「体操とは祈りである」という野口のことばの真意がはじめてつかめたような気がする。

 今日は、ここまで。
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啓蟄……そして……花の季節へ

2012年03月05日 18時57分07秒 | Weblog
 冬ごもりの虫たちが地中から這い出るころ。
 とはいえ、本日の寒さは寒中であった。冷たい雨が風を受けて横殴りに降り続けるなか、所用で外出した。
 玄関を出て木戸の手前にある花梨の枝に目が止まった。葉はすでに開きはじめ、花芽も一段と紅さを増している。鉢植えの植物のなかで、春いちばんに葉を拡げるのが花梨である。
 この寒さでは春は遠いと思っていたが、植物はしっかり次の季節へと歩みを進めているのだ。

 どの新聞にも、どのニュースでも、今日は「啓蟄」という言葉が書かれ、聞かれた。
「虫は古代文字では“蛇”の象形なのよ。それが昆虫の虫の意味になっていくわけね。この虫+虫+春で“蠢”。“うごめく(き)”と訓むのだけれど、大和言葉も文字もいいよね。うごうご、うごめく。これが“うごく(動)”の実感だと思うの。閉ざされた冬の中にも生命は潜み、次第に命は膨らみ、いざ虫たちが這い出て来る。それが蠢きの本質だ。それが啓蟄だ。動きは内動にあり。からだの内側からもぞもぞと生まれる動き。その実感が蠢と啓蟄という文字に表されて、からだの感覚としてぴったりくるんだよね。これこそ野口体操の動きだ」
 おおよそこのような意味を語ってくださった先生を、毎年、この文字を見ると思い出す。
 
 そして弥生・三月は花の季節でもあるが、先生との別れの月でもある。
 今年の開花は少し遅めなるのか……。
 朝の花もよし、
 昼の花もよし、
 そして夜桜は美しさで哀しみを包んでくれて……さらによし。
 今年、上野……花散るさとの野辺送りの日から14年か。
 過ぎし月日の何ともはやし。 
 
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Globish

2012年03月04日 08時41分06秒 | Weblog
 2月26日早朝、いつもの通り朝刊を取り、こたつ板の上に拡げて、目がとりこになった。
《カオスの深淵 もっと速く市場の欲望》なんと一面のトップ記事が横組だった。
「たった1千分の5秒短縮するために……」出だしの時には、金融・証券市場の話とは思わず読み進んだ。
 
 実は、朝日新聞が横組ページを載せたり「GLOBE」版を挟み込んだり、それを独立させたりしていることには早くから気づいていたものの、慣れない読みにくさから敬遠していた。
 はじめてまじめに文字をおって、内容を読み取ろうと試みたが、2月26日の朝刊だった。おそらく新聞社側の思う壷にはまったのかもしれない。
 それはそれとして、本日3月4日(日)のGLOBEはすっかり読まされてしまった。横組であることの意味が私の中で納得できたからかもしれない。つまり、読み手側にとってものすごく知りたい内容だった、ということだ。

 テーマは「英語化の行方」ー 国際共通語としての英語だが、中国や新興国の台頭で米国に陰りが見え始めた。英語の勢いはどこまで続くのか。

 その特集のなかに『Globish The World Over』2004年刊(翻訳本があるそうだが)著者の一人であるジャンポール・ネリエールが提唱する「グロービッシュ」活動に興味を深く感じた。
 英語を母語としないひと同士の実用的なコミュニケーションの「道具」という考え方。
 比喩やユーモアもさけ、上手に話すことではなく理解してもらう「伝わるのに十分」な英語を学べばよい、という提案と活動。
 国連でさえも多言語主義が揺らいでいる今だからこそ、英語による文化的な侵略から自分たちの文化を守る方策としての英語学習が「Globish」というわけだ。

『私の理想は、人びとがそれぞれの母国語を話し、制限はあるものの「十分」な英語を話すこと。余った時間で、スペイン語、イタリア語、中国語などの別の文化を学ぶ。グロービッシュを話すことで、英語による文化的な侵略から自分たちの文化を守ることができる』と、J・ネリエールは語っている。
 理想だし、賛否はあろうけれど、一つの考え方だ。
 ただし、歴史的に多言語が日常的に行き交う欧州等々と比べて、日本の場合、明治維新以来の「特殊事情」も加わり、現実的な難しさが増している。

《母語に加え英語を話す人が増える中で、「英語しか話さない人の経済的な将来はくらい」と皮肉な見方をしている、[豆知識2]》ともある。
 この問題、脇に置いておく時間はない。日曜版で横組に慣れたようにはいかないが、第二公用語化に近い現象はすでに解禁されているんだなぁ~。

《英語とどうつきあうか。実利を求めて懸命に学ぶか。自国の文化にこだわるか。》
 両立させられないロゴス的対立項から、第三の智慧「レンマ」を取り出してみよう。
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ミトコンドリア・イブに思いを馳せて「生きてる生きてく」福山雅治

2012年03月03日 10時26分01秒 | Weblog
 本日の朝日カルチャー土曜日クラスのレジュメを書いていた。
 バックで流したのは、昨晩Mステで聞いた福山雅治「生きてる生きてく」、ドラえもんの主題歌。
 歌詞を確かめたかったからだが、予想を裏切る明るく軽い音楽がついていて、元気になれる。
「単に福山ファンじゃないの?」
 それは大いにあるけれど、それだけじゃないの。
 ミトコンドリア・イブに思いを馳せて聞くと、結構、重い歌詞だよ。

 別件、不思議なのだけど、埋め込み作業をやってみたが、いくら繰り返してもYouTubeがこの画面に張り付かない。一度クリックしてみてください。
 人それぞれ、好みがあるから、気に入らなくても仕方ないけどね。
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いよいよ弥生

2012年03月01日 09時26分54秒 | Weblog
 この地域では、今日が月二回の「不燃ゴミ回収日」だった。
 全部を回収してもらえるのか少し心配だったが、先日来の片付けでたまっていた不燃物を一気に出した。
 先ほど回収が終わって、木戸の前はさっぱり綺麗になった。

 さて、弥生、三月。
 今年の片付けは、予定の9割を終えて、あとはまた来年ということで一旦終了。
 今日からは新しい学期に向けての準備や、野口資料の整理に取りかかろうと思う。

 おかげさまで蔵の中は、目に見えて片付いた感がある。
 狭いながらも六畳ほどの空間を確保した作業場の照明は、47年ほど使用していて最近ではお化け蛍光灯になっていた。それをLED照明器具に付け替えて、安定した光量を得ることができる。万々歳である。
 後は、後のことだ。
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