中国貴州省とそこで暮らしている苗族トン族等の少数民族を紹介しています。

日本人には余り馴染みのない中国貴州省と、今私が一時滞在中の雲南省や大理白族自治州大理古城について

俳優高倉健が亡くなったニュース

2014年11月22日 | 中国事情

先日俳優高倉建が死亡したニュースを中国中央TVの13チャンネル初めとして多くの中国のメディアが流していました。特に、11月18日の火曜日には、中国中央TV13チャンネルの「新聞1+1」と云う夜9時半から始まる30分番組の中では高倉健が亡くなったニュースを取り上げていました。この番組では、毎回一つのニュースを取り上げ色々な角度から分析するので、最近は私も時々見ていますが、この「新聞1+1」と云う番組は、云ってみればNHKの「クローズアップ現代」に近い様な番組と云えるかと思います。また、この番組の内容は直ぐに、中国語に文字起こしした物がネット上に流れるので、私の様に中国語のレベルの低い人間にとり、この番組を観る事はとても良い勉強になります。で最近割合観る番組の一つです。

この番組の中では、高倉健が主演した映画「君よ、憤怒の河を渉れ」(注:中国語の題名は追捕)は文化大革命が終わり、改革開放が始まって間も無い中国で初めて放映された外国の映画だったとの事。1978年に小平が日本を訪問した後、日中間の文化交流の重要性等が認識され、文化交流を促進する観点から、「追捕」「望郷」等の映画が中国では、相次いで上映された事。その中でも映画「追捕」の主人公である高倉健、中野良子の両名は当時の中国の若い世代からは大変な熱狂的をもって迎えられ、中国の若者達の間では憧れの的になった事。何でも高倉健が映画の中で着用していたトレンチコートと同じデザインのコートは、ある服装メーカーが10万着製造したところ、僅か、半月で完売、売切れた事。その後中国では、高倉健主演の映画「幸せの黄色いハンカチ」「遥かなる山の呼び声」等も相次いで上映された事もあり、高倉健は単なる映画スターの枠を超えた日中関の文化交流の云わば象徴の様な存在になった事等が紹介されていました。

 私が、語学留学の為に中国に来たのは1988年の事です。その頃、知り合いの中国人の口からは、良く高倉健、中野良子、栗原小巻、山口百恵と云った日本の俳優の名前が聞かれたものです。彼らが主演した映画やテレビ番組が放送され中国では特に人気があったようですが、実は私はその頃は高倉健も含め特に興味ない俳優達だったので、中国人から彼らの事を色々と質問され大いに困った事を思い出します。

今にして思えば、1988年頃は中国の大都市でもテレビがそれ程普及しておらず、中国では映画が娯楽の中心だと云った事情もあったかもしれません。高倉健が映画の中で着用していたトレンチコート、革ジャン、スーツ等は当時の中国ではとても新鮮で最新ファッションとして若い人達の興味を引いたのかもしれません。その頃、中国人からやはり「家に、テレビはあるか?」「テレビは白黒か、カラーか」と良く聞かれた事も思い出します。

当日、この番組にゲスト出演した中国では有名なキャスター白岩松(この人は、この番組「新聞1+1」のメインキャスターの一人です。)も、10代後半の頃、この「追捕」を観た当時の驚き、衝撃、思い出を語っています。彼は中国の改革開放が始まって初めての映画「追捕」に会った時の感想を「開門見山」と表現しています。また、映画監督張芸謀も、その当時は工場で働いていたそうですが、「追捕」の様なアクション映画はその当時中国には無かったので本当に感動したとも述べるとともに、その映画を観た中国人の若者の何億もの人間の心を高倉健が捉えたとも語っています。

 高倉健、中野良子、栗原小巻と云った俳優達が中国では、80年代90年代の日中間の云わば蜜月時代における象徴となったとも番組では紹介されています。確か中野良子は「希望工程」と云う中国で行われた慈善事業に感動して中国の農村に小学校を建設したはずですし、何度も中国を訪問しているハズです。また、「新聞1+1」にゲストとして、当日特別ゲストとして出演したキャスターの白岩松は、日本を訪問しした際、栗原小巻を取材した際の思い出も語っています。それによれば、栗原小巻が、白岩松が取材に来る前から長い間外で待っていた事や栗原小巻が日中間の文化交流の重要性について彼女なりの意見、考えを持っていると共に、それを実践していた事にも大変感心したと述べています。

映画監督の張芸謀も、この番組以外では某新聞でも高倉健についての思い出を語っていますが、それに拠れば張芸謀の映画が日本で上映された際には、高倉健が花束を贈った事もあり、それを聞いて感動して是非とも高倉健と映画を撮りたいと思ったとの事です。中国の有名な俳優「姜文」も「私達の母親世代や我々の世代はみんな高倉健のフアンだった」とも、この番組の取材に対して述べています。

張芸謀が監督し高倉健が主演した映画「単騎 千里を走る」は雲南省が舞台です。その映画の中ので「長街宴」のシーンが撮影された村が、2012年洪水に遭った際には、高倉健が手紙と共に村の人に対して義援金を含め色々な物資を送った事等も、この番組の中でも紹介されました。この映画の中では、街頭に食卓を並べ、村中の人が全員でご馳走を食べる場面がありますが、この「長街宴」または「長卓宴」と云う言葉も、この映画をきっかけに日本人にも次第に知られるようになったように思います。

私は、偶々1989年に雲南省昆明市に語学留学している時、この村に行った事もあり、高倉健がこの村に義援金等を送った事は知っていましたが、今私が滞在中の大理鎮には、明王朝の時代に中国はここ大理で亡くなった日本人留学僧4名が埋葬されている墓があるのですが、高倉健が大理鎮を訪れた際、そのお墓が大分傷んでいるのを見て、心を痛め100万円を寄付したとの事です。また、あるサイトには、中国で高倉健の映画の吹き替え役をしていた人が死亡した際には、高倉健がお見舞いの言葉を贈った事等も紹介されていました。また、多くのサイトには高倉健を懐かしむ声、彼の死を悼む声、彼の人間性を称える声が沢山寄せられているようです。(注:中国では外国映画は字幕もありますが吹き替えが多いようです。今サイトに上がっている高倉健の映画も殆ど吹き替えで字幕物は無いに等しい。)

この「新聞1+1」と云う番組では、俳優高倉健が亡くなった事を単に惜しむ番組ではなく、高倉健や中野良子、栗原小巻等の俳優が中国で日中間の文化交流の最も盛んな時期に彼女らが果たした役割を称える番組でした。時に、高倉健が映画以外の面でも多くの中国人に深い感銘と人間的な感動を与え続けた事を取り上げていました。

また、この番組では現在日中間の関係が日中の国交が回復して以来、最も冷え込んでいる事にも触れ、高倉健が日中間の文化交流の促進に果たした大きな役割を取り上げ、そして、その象徴となった事を指摘すると共に、今後日中双方がどうすべきか問題提起していました。無論先日APCEで日中両首脳が非公式ながら会見した事も取り上げていましたが、番組の中で「両首脳は会見した、が、この後はどうするか?」と強調していたのが、私としては印象的でした。



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