5年前、長良川河口堰運用開始から10年の年に書いた記事を再録します。
この時点での予感は悪い方に的中して、長良川河口堰についての国交省の評価はますます現実から乖離している。
今年の長良川のアユの不漁、小型化。この問題が多くの人にとっても実感できるものになった時点でも、影響はないという評価が下されている。
この原因は少なくとも二つある。
一つには、行政が行う施策には瑕疵がないという組織防衛の必要性。
これについては、いまさら言うまでもないことなのだが、行政には自らが変革する機能が無いのだからしかたがない。?
もし、行政の自己変革能力が高かったら、我が国は今のような長期的な低迷に陥ることはなかったわけで、これは、国交省だけの責任ではない。まして、国交省の天下り先にすぎない水資源機構に変革をもとめてもほとんど、意味が無いことだと思っている。
もう一つ、これについては、水資源機構には責任がある。
自らが環境変化を知ること手段。つまりは情報収集=モニタリングの手法を確立する前に調査を打ち切ってしまっていたという失態だ。
昨日の記事 学識経験者という無
この中に委員会で使用した(であろう)パワーポイントをリンクした。
パワーポイントは、見ている分には内容を理解したように錯覚させることを目的としたツールだ。
こんな内容を延々120ページも見せられて、その内容を理解する専門家というのはあまり多くはない。その意味では学識経験者の無能を責めるのは酷ということもできる。しかし、それにしても、実がない。こんな内容で調査を継続しても何も解らないのだから、やるだけ税金の無駄というものだ。
ボクが残念に思い、5年前に危惧したことは、モニタリングのツールを無くしてしまうと、環境の変化という現実を捉えることが出来なくなるという事態だった。
それは、現実のものとなってしまったようだ。
以下)
再録 二度殺され(かけた)川 長良川河口堰運用から10年。
2005年5月23日、長良川河口堰が稼働して10年が経過した。
長良川河口堰が完成したのは、その前年であるのだけど、10年前のこの日から、長良川は大水や地震の時以外は河口堰がその河口を閉め切っている。
河口堰が完成し、明らかになったことがある。河川における河口域の大切さだ。
汽水域の消失。
漁業者、生態研究者の多くが抱いてきた懸念・問題点ではあったが、その影響は最悪の想定に近いカタチで現在も進行している。
川にとって海とのインターフェースをなくすことがどういうことか。それは、今の長良川を見るとよく分かる。
一つの川にとって「死」とも言うべき現実だ。
そして、長良川は10年を経過してもう一度殺されることとなった。
事実に対する抹殺という行為だ。
長良川の環境の変化は、多大な税金を投じて記録されてきた。しかし、投じられた金額と時間とは、こんなカタチで幕引きとなった。
長良川河口堰に関する当面のモニタリングについて
もとより内容は乏しいが、ひらたく言えば、長良川河口堰の影響はほとんど無かった。と自己採点を行い、現実から逃げ出してしまったのだった。
勝ち逃げを計った。あるいは、それに、成功した。という見方もあるかもしれない。
しかし、どうだろう。本当に、勝ち逃げが成功したのだろうか。
以前、旧建設省と朝日新聞との往復書簡があった。あの論争はある意味では空回りだったが、建設省がもっている価値観の一端が現れていた。
我々は情報を持っている、だから、反論するなら(新聞社も)自前で調査しろということだ。
税金を使って行っている事業なんだから、その論理はあんまりだとは思うが。ともかく、そのような論理をもって行動する機関がである。自ら情報を集めることを放棄して、影響はありません。そう他者に対して反論ができるのだろうか。ということなのだ。
ボクは、案外この「勝ち逃げ」行為が、また、建設者が後手にまわる失態の始まりとなるのではないかとひそかに思っている。
にいむら
この時点での予感は悪い方に的中して、長良川河口堰についての国交省の評価はますます現実から乖離している。
今年の長良川のアユの不漁、小型化。この問題が多くの人にとっても実感できるものになった時点でも、影響はないという評価が下されている。
この原因は少なくとも二つある。
一つには、行政が行う施策には瑕疵がないという組織防衛の必要性。
これについては、いまさら言うまでもないことなのだが、行政には自らが変革する機能が無いのだからしかたがない。?
もし、行政の自己変革能力が高かったら、我が国は今のような長期的な低迷に陥ることはなかったわけで、これは、国交省だけの責任ではない。まして、国交省の天下り先にすぎない水資源機構に変革をもとめてもほとんど、意味が無いことだと思っている。
もう一つ、これについては、水資源機構には責任がある。
自らが環境変化を知ること手段。つまりは情報収集=モニタリングの手法を確立する前に調査を打ち切ってしまっていたという失態だ。
昨日の記事 学識経験者という無
この中に委員会で使用した(であろう)パワーポイントをリンクした。
パワーポイントは、見ている分には内容を理解したように錯覚させることを目的としたツールだ。
こんな内容を延々120ページも見せられて、その内容を理解する専門家というのはあまり多くはない。その意味では学識経験者の無能を責めるのは酷ということもできる。しかし、それにしても、実がない。こんな内容で調査を継続しても何も解らないのだから、やるだけ税金の無駄というものだ。
ボクが残念に思い、5年前に危惧したことは、モニタリングのツールを無くしてしまうと、環境の変化という現実を捉えることが出来なくなるという事態だった。
それは、現実のものとなってしまったようだ。
以下)
再録 二度殺され(かけた)川 長良川河口堰運用から10年。
2005年5月23日、長良川河口堰が稼働して10年が経過した。
長良川河口堰が完成したのは、その前年であるのだけど、10年前のこの日から、長良川は大水や地震の時以外は河口堰がその河口を閉め切っている。
河口堰が完成し、明らかになったことがある。河川における河口域の大切さだ。
汽水域の消失。
漁業者、生態研究者の多くが抱いてきた懸念・問題点ではあったが、その影響は最悪の想定に近いカタチで現在も進行している。
川にとって海とのインターフェースをなくすことがどういうことか。それは、今の長良川を見るとよく分かる。
一つの川にとって「死」とも言うべき現実だ。
そして、長良川は10年を経過してもう一度殺されることとなった。
事実に対する抹殺という行為だ。
長良川の環境の変化は、多大な税金を投じて記録されてきた。しかし、投じられた金額と時間とは、こんなカタチで幕引きとなった。
長良川河口堰に関する当面のモニタリングについて
もとより内容は乏しいが、ひらたく言えば、長良川河口堰の影響はほとんど無かった。と自己採点を行い、現実から逃げ出してしまったのだった。
勝ち逃げを計った。あるいは、それに、成功した。という見方もあるかもしれない。
しかし、どうだろう。本当に、勝ち逃げが成功したのだろうか。
以前、旧建設省と朝日新聞との往復書簡があった。あの論争はある意味では空回りだったが、建設省がもっている価値観の一端が現れていた。
我々は情報を持っている、だから、反論するなら(新聞社も)自前で調査しろということだ。
税金を使って行っている事業なんだから、その論理はあんまりだとは思うが。ともかく、そのような論理をもって行動する機関がである。自ら情報を集めることを放棄して、影響はありません。そう他者に対して反論ができるのだろうか。ということなのだ。
ボクは、案外この「勝ち逃げ」行為が、また、建設者が後手にまわる失態の始まりとなるのではないかとひそかに思っている。
にいむら
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