▲道遊の割戸
今日は佐渡島でのメインイベント、佐渡金銀山の見学です。
聞けば西暦1601年に山師三人が、佐渡金銀山を発見して開山したということなのですが、佐渡島に上陸後、どのようにして開山に至ったか、猛烈に知りたいと思いました。
何故って、相川の海岸線から佐渡金銀山まで直線距離で約2キロ、似たような山々が数多ある中、どうして佐渡金銀山をピンポイントで見つけることができたのか?
どのような知見と技術が山師たちにあったのか?
私は猛烈に知りたいと思います。
当日、朝9時少し前にチェックアウトして「史跡佐渡金山」を目指して車を走らせます。
10分かからぬうちに「史跡佐渡金山」に到着。
開場が8時30分なので、駐車場の車は疎らでした。
「史跡佐渡金山」には、江戸時代に開発された宗太夫坑に、説明のためろう人形など作り付けて、分かりやすく解説した「宗太夫坑コース」と明治以降に開発された「道遊抗コース」の二通りあります。
我々は二つのコースを見学できる共通券を購入して、まず「宗太夫坑コース」に入りました。
下り勾配を歩いていくと、そこここにろう人形などがいて、ろう人形たちの会話と思われる音声が聞こえてきます。
当時は電灯照明などあろうはずが無く、灯のため、穴の中で油を燃やしながらの作業とのことで、ちょっと想像できないくらいの過酷な職場であったことでしょう。
▲佐渡金銀山・宗太夫坑
佐渡島は「流人の島」という先入観がありました。
ずっと以前に松本清張の「佐渡流人行」を読んでいたからと思います。
しかし、金銀鉱石の採掘は高度な専門職だったそうで、罪人・流人を採掘に当たらせることは出来なかったようです。
鉱脈を下に掘り進むうち、湧水の処理という難題に立ち向かう事になり、特に技量のいらない力仕事だけという「水替人夫」、湧水を地上まで上げて捨てる、を担当させるため、江戸などで無宿人狩りをして集めた人々を佐渡に送り、強制労働させたのだそうです。流人を使ったのはこの仕事だけのようです。
「宗太夫坑コース」の終点にお土産屋さんが有ります。
地上に戻ってから、再び「道遊抗コース」に進みます。
こちらは明治期から平成まで採掘された鉱山後で、かなりリアリティを感じさせます。
▲道遊坑
仕事で釧路炭鉱の採掘現場に行ったことがあると言う友人は、トロッコに乗って1時間くらい、そこから人が乗るベルトコンベアー(マンベルトというらしい)で採掘現場に行くんだ、と言って懐かしがっていましたが、炭坑は火事や爆発が付き物の危険な現場、私は絶対に行きたくはありません。
「道遊抗コース」の最後に、「道遊の割戸」と言われる佐渡金山の山頂から下までV字に切り込んだ線を見ることの出来る場所があります。
発見した山頂の金脈を、鉱脈沿いにV字に人力で掘り進んだ跡だそうで、江戸人のパワーに圧倒されます。
▲道遊の割戸