末っ子の母を、「ぜひ養女に欲しい」と子どものない親戚がせっついていた話を、母はよくしていました。
それもまた、母を良い子のカラに閉じ込めた思い出だったのでしょう。
母は自分の欲望を極端に我慢して、家族に奉仕する一方、いったん家族のためと言う大義名分ができると、怪しい商法の健康器具やら、鍋セットやらに簡単に大金をはたいてしまったり、そうしたものに対しては、妙に我慢がきかないところもありました。
そんなことなら、お母さんの好きなものに、自由にお金を使ってくれたら、どんなに家族は気持ちが良くてうれしいか…と思うのに、「私はボロで良いの…」とやたら自分にはケチケチするのです。
その点、妹は世界は自分を中心に回っている!と大らかに宣言しているような生き方考え方をする性格で、母にすると妹のすることなすこと気に入りません。
母は自分の欲望を極端に我慢して、家族に奉仕する一方、いったん家族のためと言う大義名分ができると、怪しい商法の健康器具やら、鍋セットやらに簡単に大金をはたいてしまったり、そうしたものに対しては、妙に我慢がきかないところもありました。
そんなことなら、お母さんの好きなものに、自由にお金を使ってくれたら、どんなに家族は気持ちが良くてうれしいか…と思うのに、「私はボロで良いの…」とやたら自分にはケチケチするのです。
その点、妹は世界は自分を中心に回っている!と大らかに宣言しているような生き方考え方をする性格で、母にすると妹のすることなすこと気に入りません。
妹の悪い素行をしつけなおそうというより、性格を根こそぎ改造しようとでも思っているような態度でしつけをしていました。
そのため妹は、母にべったり甘えていたかと思うと、口汚くののしったり、暴力をふるったり、だめと言われていることをわざとやったりしていました。
すると母の方も本気になってしつこく妹を叱ります。
そのため妹は、母にべったり甘えていたかと思うと、口汚くののしったり、暴力をふるったり、だめと言われていることをわざとやったりしていました。
すると母の方も本気になってしつこく妹を叱ります。
妹も妹で、一日中でもごねて、母を思い通りに操ろうと必死でした。
そんな毎日が、一年中、いえ、何年も…妹が結婚して家を出たあとも、冷たい親子の憎しみあいの形で続きました。
母は妹との関係を良いものにしたいと思っていなかったのか…?というとそんなことはありません。
母は妹との関係を良いものにしたいと思っていなかったのか…?というとそんなことはありません。
母はいつも子育てに悩む母で、懸命に良い母になる方法を学んで自分を変えようと反省する母でした。
しかし母がいつも手付かずのままけっして変えようとしないものがありました。
自分が良しとする価値観…
自分が良しとする価値観…
「控えめで、温和で優しく、物を欲しがらず、自慢せず、自分のことよりまず人を思いやるような性格」だけを良しとする考え方です。
妹の「積極的で強気で自信家で快活な性質」をあるがままに認めて尊重することは決してなかったのです。
「コンプレックス」は、ある種の抑圧が原因となるそうです。
「本当は、こうしたかった」という素直な気持ちを、対人関係の中で抑圧され続けると、不満が増大し、「理性から外れたこだわり」となるようです。
子どもの願いに反した価値観を押し付けたり、よかれと思っていた教育方針が、子どものコンプレックスの原因となります。
人間関係って、本当にトラブルが多くて、傷つけ、傷つけられることが日常茶飯事ですが、相手の立場を考えず、想像力や優しさの欠けた発言をしてしまうとき、そこにはコンプレックスが関係しているように思います。
虹色教室に来ている軽度発達障害が疑われる男の子が小学生の頃、お母さんと楽しそうに笑いながら自転車で移動している時、学校の担任と会ったそうです。
子どもの願いに反した価値観を押し付けたり、よかれと思っていた教育方針が、子どものコンプレックスの原因となります。
人間関係って、本当にトラブルが多くて、傷つけ、傷つけられることが日常茶飯事ですが、相手の立場を考えず、想像力や優しさの欠けた発言をしてしまうとき、そこにはコンプレックスが関係しているように思います。
虹色教室に来ている軽度発達障害が疑われる男の子が小学生の頃、お母さんと楽しそうに笑いながら自転車で移動している時、学校の担任と会ったそうです。
担任は、うれしそうに微笑んで、
「こんな風に家族で仲良く過されている時もあるのですね、安心しました……」というようなことをおっしゃったそうです。
「こんな風に家族で仲良く過されている時もあるのですね、安心しました……」というようなことをおっしゃったそうです。
男の子の表情が乏しく、たびたび学校で問題をおこすので、担任は、親の愛情不足と決め付けていたようなのです。
現実には、男の子のお母さんはたいへん子どもを大切にする方なのです。
先生が自分の育ちの中で作ってきたコンプレックスに無自覚だと、たびたびこうした事実と異なる発言をして親や子を傷つけたり、生徒の問題を大きくしてしまうように思います。
また、親は自分のコンプレックスを見つめていく勇気を持たなければ、どんなに愛情を持って努力していても、自分のコンプレックスをわが子の中に投影して、わざわざ子どもの悪い部分を引き出して育ててしまうようです。
「投影」とは、意識が「自分のものじゃない!」と否定したがっている自分の心を、他人の心のように解釈して、相手を否定し、攻撃することです。
嫌がらせやいじめをする人の心には、この投影が働いているのでしょうね。
そうして、自分の心を守っているのです。
辛いのは、しらずしらずに大切なわが子に、この投影をしてしまうこと。
自分の先延ばし癖を見たくない親が、わが子を「ぐず!」とののしったり…
先生が自分の育ちの中で作ってきたコンプレックスに無自覚だと、たびたびこうした事実と異なる発言をして親や子を傷つけたり、生徒の問題を大きくしてしまうように思います。
また、親は自分のコンプレックスを見つめていく勇気を持たなければ、どんなに愛情を持って努力していても、自分のコンプレックスをわが子の中に投影して、わざわざ子どもの悪い部分を引き出して育ててしまうようです。
「投影」とは、意識が「自分のものじゃない!」と否定したがっている自分の心を、他人の心のように解釈して、相手を否定し、攻撃することです。
嫌がらせやいじめをする人の心には、この投影が働いているのでしょうね。
そうして、自分の心を守っているのです。
辛いのは、しらずしらずに大切なわが子に、この投影をしてしまうこと。
自分の先延ばし癖を見たくない親が、わが子を「ぐず!」とののしったり…
自分の中の怠けたい願望を無視している親が、子どもを無理な勉強に駆り立てたり…
自分への自信の無さを、子どもの短所と重ねて、くりかえしぐちったり…
なんかがそうです。
また人の心の中には、コンプレックスとは別に「シャドー」というものが存在するそうです。
人の無意識の中には、その人の性質として振舞っているのと反対の性質や考え方があるそうで、それをシャドーと言います。
また人の心の中には、コンプレックスとは別に「シャドー」というものが存在するそうです。
人の無意識の中には、その人の性質として振舞っているのと反対の性質や考え方があるそうで、それをシャドーと言います。
シャドーとは当人が嫌って否定する悪で、その人の心の一部です。そのシャドーも無自覚だと、子どもに投影されます。
そして、それが原因となって、子どもの問題行動が誘発されだんだんエスカレートしていくことは、よく起こることのようです。
それでは、どうしたらそんな悪循環を絶つことができるのでしょうか?
以外に簡単なのだとか…。こうした他人の中に自分の嫌な部分を見てしまう「投影」を利用して、自分の心の闇をしっかり見ることです。
そして、それが原因となって、子どもの問題行動が誘発されだんだんエスカレートしていくことは、よく起こることのようです。
それでは、どうしたらそんな悪循環を絶つことができるのでしょうか?
以外に簡単なのだとか…。こうした他人の中に自分の嫌な部分を見てしまう「投影」を利用して、自分の心の闇をしっかり見ることです。
「私にはそんな嫌な心はないんだ…」という思いを乗り越えて、他人に見ているものが投影だと気づけば、悪い循環を終わらせることができるそうです。
私は子供を持つ前にしばらく心理セラピストになるための勉強を真面目にしていた時期があり、不登校などに悩む子供を持つお母さんのセラピーを何度か見てお母さんのビリーフが変わることを通じて子供さんの行動が変わっていく事例を何度か目にしました。お母さんだけが原因ではないし、親にとって都合の悪い子供の行動が全て悪いわけではもちろんなく、子供自身の成長に必要なこともあると思いますが、どんな意味づけをするか?で現実は大きく変わるような気がします。
つらつらと書いてしまいましたが、先生お加減いかがでしょうか?くれぐれもご自愛ください。
今年もブログ楽しみにしています。でもくれぐれもご無理なさいませんように。