幼児期には、子どもが内側からの欲求で、数が好きでたまらなくなる数の敏感期が存在します。
大人が子どもを信じて、ゆったりと無駄な時間…子どもがぼんやりと想像の世界や思考の世界で遊ぶことを許してあげていたら、子どもは自分で数のルールを発見していきます。
また、幼児期の後半には文化の敏感期というものがあり、宇宙のこと、自然のこと、世界のことなどさまざまな身の回りの不思議や知識に強く惹きつけられる時期が存在します。
この2つの時期はとても不思議です。
虹色教室には、写真のような科学の本や図鑑類や学習漫画をたくさん置いています。それが、小学生になってから虹色教室に通っている子は、そうした本を読もうとすることはまずありません。
とても成績が良い子でもそうなのです。
でも、幼児期のこうした敏感期を大切にしてあげてきた子たちは、小学生になっても知識の本を借りたがり、休憩時間には図鑑を読みふけります。
この敏感期、良い早期教育によっては大きく花開き、まずい早期教育によっては壊されてしまうように思います。
良い早期教育というのは、子どもの好奇心に沿う大人からの期待を押し付けない教育です。
まずい早期教育とは、なぞなぞの答えを教えていってたくさんなぞなぞが出来る子にしようともくろむような、大人の考えを子どもに教え込む教育です。
なぞなぞの答えをたくさん教えると、他の子よりたくさんなぞなぞができるようになるように思えますが、子どもは発想を転換させ、イメージをふくらませ、自力で解くといった体験を失います。
足し算も、暗記させて解かせるようなことを繰り返すと、数の敏感期に自分で算数のルールを発見する力を失います。
また、しばしば早期教育は文化の敏感期をなくさせてしまいます。
どうしてそんなことが起こるのでしょう?
お年寄りは人生経験が豊富でも、算数の文章題や科学の問題を「そんなのできないわ」と言いますね。
すでにある知識が、純粋に自分で考える意欲を奪ってしまうこともあるのです。
子どもの学習への興味が、褒められることや大人を喜ばせることに占領されるときも、文化の敏感期はなくなるようです。
子どもは、知らないから、不思議だから、自分の身の回りの謎に惹きつけられます。
早い時期に、大人の学習法で、世界をしらけた面白みのないものにしてしまってはいけません。
子どもは、実際見たり味わったり触ったり聞いたりしたものを、もっと知りたい、よく考えたいという子ども独特の心のあり方を持っています。