虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

様変わりした算数セット……算数セットを使わない学校もあるそうです

2022-04-27 23:03:42 | 算数

最近の小学校の算数セットは、ひと昔前のものと比べてずいぶん様変わりしたようです。

かつて、わが子の就学を控えた親たちをうんざりさせた算数セットの名前つけ作業も、今では、単語カード風に束ねてある計算カードとせいぜい10個までの具体物、プラスチックの時計などに名前をつければいいだけのようです。

算数セット自体、使わない学校すらあって、ないならないで授業が成り立つなら、算数セットなどという面倒な道具をどうして購入させていたんだろう、と古い教育の無駄なあり様を疑問に思う方もいらっしゃるようです。

 

確かに、授業中の手遊びのもとになるようなセットがあるのは面倒なだけかもしれないし、ちまちました小物は無くし物と忘れ物の元凶となることでしょう。

それでも、「1年生で教えるのはここまでだから……」という数の棒やチップの横で幅をきかせる計算カードを目にすると、もやもやした心配が頭をもたげてきます。

かつての算数セットはよかったとか、今の算数セットではダメだとか、そういうことではなくて、それは、世の中のお母さんの考えや先生の考え方を象徴しているようでもあるし、子どもの置かれている環境や子どもの脳内を具現化したもののようにも見えるからです。

 

教室に初めて来る年長さんや1年生の算数の力を見ていると、「3+1=」といった問いには、即答できるのに、★ちゃん、●ちゃんの前にドーナツのおもちゃを2個ずつ置いて、「★ちゃんのドーナツを1個、●ちゃんにあげるとどうなるかな?」といった質問には、首をかしげたままになってしまう子がけっこういるのです。

目の前の物を見ながら、「これをこっちに移動させたら、どんな風に変化するかな?」とイメージすることができないのです。

 

物を手で動かさないでもイメージできるようになるには、それまでに実際に物に触れて、手で操作した体験がたくさん必要です。

いくら計算カードで式を暗記しても、物をイメージして考えていく力が伸びていくわけではないのです。

計算カードを暗記する時、子どもによっては、まるで電話番号を丸暗記していくような理解で覚えていく子もいるのです。

また、3人の子どもたちがいる時に、「★ちゃん、☆ちゃん、●ちゃんの3人の子の手の中に3個ずつおはじきがあるよ。みんなのおはじきを合わせるといくつになる?」とたずねても、ひとりひとりの子を指さしながら、「1,2,3……4,5,6……」と見えないおはじきを数えあげていくことができない子もいます。

 

算数セットが貧弱になったから、具体物を操作したり、イメージしたりする力が弱くなったというわけではないけれど、できるだけ効率的に学習単元をマスターさせていくこうという考えを世の中の大人たちがこぞって目指すことには、意外な落とし穴があるのではないか、と考えてしまうのです。

 

 

2ケタの筆算はできるけれど、数の理解がほとんど進んでいない子たちといっしょに100を作っていく遊びをすると、それまで学校で何度計算プリントをしてもピンときていなかったことが、ハッとわかる時があるのです。

 

「小学1年生で学ぶのは、この数まで」と決まっていても、実際に目で見て、手で操作する数が、習う数の範囲だけだと、本当の意味で数について理解できるのでしょうか?

 

わたしは習うものが10までの足し算という時にも、目で見て、身体で数を知るには、100とか1000といった数を、見たり触れたりすることが大事だと思っています。

 

数というのが、どこまでも続く秩序として子どもの中に根付くには、たくさんの数を見たり触れたりする体験が必要ですから。

 

算数セットにまつわる変化について、もやもやとした思いをくすぶらせていた時に、内田樹氏の 子どもたちよ、英語のまえに国語を勉強せよ という文章を読んで、自分が何に対して気を揉んでいたのか腑に落ちました。

この文章、英語について書かれているものですが、学習全般に通じる、大事なことが述べられているのを感じました。

 算数セットの話題からは、少し逸れてしまうかもしれませんが……。

 

内田樹氏は、英語力が下がった理由は「英語を学ぶと将来的に有利」などと、英語力を実利に結びつけるようになったから」とおっしゃっています。

 

学習の“報賞”があらかじめ開示されると、子供たちはいかに効率よく“報賞”を手に入れるか、最小の学習時間で、最大の効果を求めるようになります。

頭のいい子ほど、「聞き流すだけで英語力が上がる」とか「居眠りしながら英語力が身につく」といった市場にあふれている「最小の学習努力で最大の効果」をめざしている学習法に傾倒しがちなのだとか。

 

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かつての「英語が好き」な子供たちは、誰に言われなくても英語の小説を読み、英語の音楽を聴き、英語の映画を観て、厚みのある英語力を身につけた。

そのようにして得た英語力は試験の点数にそのまま反映されるわけではない。

無駄が多すぎたからである。入学試験に出るはずのない「無用の知識」を大量に含んでいたからだ。

けれども、その「試験には出ない知識」が彼らの英語力の厚みを形成していた。

あらかじめ“報賞”を開示すれば、子供たちは必ずそこに至る「最短距離」を探すから厚みがない。

だから、「この教科を勉強すると、いいことがある」という誘導のしかたはしてならないのである。

             

『子どもたちよ 英語のまえに国語を勉強せよ』内田樹(プレジデントFamily 2013年7月号)

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「無駄が多すぎる学習方法に含まれる入学試験に出るはずのない大量の無用の知識がかつての英語力の厚みを形成していた。」というくだりは、自分の子たちを育てていて、強く実感しているところです。

無駄な過程を山ほど踏みながら、わが子たちが勉強したり、アルバイトして社会と関わったりする姿を見ていると、確かに、成功を約束された最短距離をひた走っていくのと違って、努力もしている、能力も十分あると思うのに、それに見合う成果になかなか結び付かないな、ともどかしい時期だってあるのです。

でも、「厚み」とか「深み」という言葉で、そうした無駄の多い体験を経たわが子たちと向き合うと、知恵にしろ、精神力にしろ、物事に対する深い理解にしろ、未来を思い描く力にしろ、わたしが20代の頃といわず、今のわたしも到底及ばないな、とも感じています。

無駄もいっぱい含んでいるような何か自分を投じることから得るものの大きさ、豊かさのようなものをわが子たちの成長から実感しています。

 

話がずいぶん脱線したので、算数セットの話題に戻りますね。

写真は、アスペルガー症候群の6年生の☆ちゃんの学習の様子です。

「1.3は0.1がいくつ分か?」という問いに、「1.3個」という答え。

そこで、「0.1が2個だと、0.2。0.3が3個だと0.3……0.1が10個だといくつ?」とたずねると、「0.01」と答えました。

また、「0.1が10個だと、1よ」と教えてから、「1.1は0.1がいくつ分?」とたずねると、「1.1」と答えていました。

これは、具体物を使って、何個なのかと数えているものと、0.1にあたるものを目で見て確認しておかないと、こんがらがっているな、と感じたので、キラキラした小物のひとつを0.1として13個並べて考えてみました。

そうやって、「0.1、0.2、0.3……と置いて行けば、それまでこんがらがっていた知識もきちんと整理できました。

 

「1枚8円のシールを6人に5枚ずつ配ると、いくらお金がかかるのか」という問題も、文章を読みながら具体物をセットしていってもらうと、「~枚ずつ」という言葉の理解につまずきがあることが判明。

「5枚ずつくばる」という文を読んで、人形にそれぞれ1枚ずつ、全部で5枚のシールを配り終えて、「できた。配れない人形もあった」と言って涼しい顔をしていたのです。

これまで☆ちゃんは「~枚ずつ」という記述が出てくる問題は解けてはいたのですが、「こういう言葉がでてきたら、掛け算をする」と覚えていただけで、意味を正しく理解してはいなかったのです。

 

「5個ずつ9皿に分けると、3個あまる」という問題を具体的に皿と小物で表してみるようにうながすと、ひとつの皿に9個、小物を乗せており、「3個あまる」という部分は、「3掛けるの?」とたずねて、計算式で紙に書こうとしていました。

 

☆ちゃんのように言葉と実際の物の扱いが結びついていない場合にも、学校で習っている期間は、計算ドリル等で同じ問題を繰り返し練習するので、パターンとして解けるようになっていることはよくあります。

学校の先生も、親も、そうして形だけでもできるようになって、テストで点を稼げたら良しとする風潮が蔓延しているように思われます。

それは、算数セットを従来のものに戻せば解決する問題でもないでしょう。

でも、物を扱わなくても、計算カードで暗記だけして、数式を扱えるようになれば問題なし……という方向に行き過ぎることには危機感を覚えます。

 

勉強は、学校で習う内容を訓練したかどうか、それができるようになっているかどうか、にだけ力を入れていても、それ以外の無駄とも思われるさまざまな体験を経なくては、きちんと力がついていかないし、正しく理解できないところがあります。

 

ゲームをして遊んでいると、頭の使い方をきちんと習得していないことに、成績が伸び悩みの原因が見つかることがあります。

写真のゲームは、「青、赤、緑、黄色、紫」の5色と、「猫、犬、馬、牛、豚」の5ひきの動物について、

「青い猫」、「赤い豚」、「黄色い馬」、「紫の牛」のように4ひきの動物、それぞれに色がついているカードを見て、そのカードにない色で、いない動物を場のカードから探す遊びです。

こういうゲームをする時には、まず、色か動物のどちらかを先に絞り込んで、色は緑がないから……猫でも豚でも馬でも牛でもない動物の犬と合わせて、答えは緑の犬ね……と判断すると、すぐに答えがわかるようになります。

そうした情報を処理が苦手だと、色の情報を覚えておくことができなくて、動物だけで判断したり、逆に色だけで判断したりしがちです。

 

カード遊びなんてテストには出ない……と思うかもしれませんが、そうした遊びの中で、手で物を操作しながら、「問題文を読んで、書いてあることを記憶した状態で、そこに描かれている図について判断する」とか、「文中にいくつかの情報が含まれている時、ひとつひとつの情報を整理して段階を踏んで解いていく」といった力が身に着いていきます。

「単元で習うことが、ちょっとでも早く労力を使わずにできるようになること」だけを目指すことには、いくら表面的な知識は詰め込んでも、そうした頭の使い方自体は身に付きにくいという難点があるのではないでしょうか。

 

幼児や低学年の子どもたちは、本人たちが、学習の“報賞”や将来の実利の意味も知らないうちから、「最小の学習努力で最大の効果」を与えようとする大人たちのレールの上に乗せられていきがちです。

それは、子ども自身が、自分の判断で、少ない努力で多くの効果を得ようと模索すること以上に、学びの根っこをスカスカにしてしまうのかもしれません。



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