当時、高校生だった息子と交わした懐かしい会話です。
(イラストは息子が学校の美術の授業で描いてきた絵です)
ブログやツイッターが盛んな今、好きな芸術家や学者の素顔や普段の生活に触れることができる一方で、「あれれ?」「うーん……」と困惑してしまうような失言や行動を目にすることも多くなってきました。
人間なんだし、完全完璧であるはずないし……と思いつつも、それをいっせいに攻撃する匿名の人々が、ネット内には、うようよいますし、誰かのファンとして心穏やかに、純粋なあこがれだけを抱いていくことは難しい時代のように感じます。
そんなことを息子と話しているとき、普段は、
「ぼくは作品重視だよ。ゴシップや失言と作品の価値とで、はっきり線引きしているんだ。作品や考え方のクオリティーしか見ない」
と言っていた息子が、慎重に言葉を選びながらこんなことを言いました。
息子 「作品以外のネタで、作品そのものの価値をゆがんだ先入観で眺める態度は嫌いなんだけど、尊敬している作者や学者のツイッター上での発言を見ると、どんなに完璧で論理的な考えを構築することができる人も……というか、そんな風に言葉の世界で表現できるものの完成度が高い人ほど、日常のさりげない営みに含まれているものとか、感情とかいったものを、軽視しているように感じられるよ。
みんながみんなってわけじゃないけどね。
学問の世界にどっぷり浸っていると、自分の追及している学問の奥深さに惹かれすぎて、対象であるそのものが人生より上だって思いこんでしまうのかもしれない。
それで成功している人はいるし、そう考えることが、悪いとは言いきれないけど。
クリエイターじゃなくても、社会的に成功している人にも同じようなことが言えると思うんだ」
私 「同じようなことって?」
息子 「成功は、すばらしいことではあるけど、人の人生に組み込まれている一部でしかないからさ。
ものすごく成功した人がいたところで、その成功という取りだした部分について言えば、誰からも注目されず平凡で無価値だと評価されるような生き方をしている人であっても、人の方が上だと思うんだ。
成功という対象と、人間という神秘的でどんな潜在的なものが隠れているかもわからないものとを比べれば、
成功がどんなにすごいものであっても、人がどんなにつまらない人に見えても、人が上ってことだよ。
学問にしても、作品にしても、成功した実績にしても、生きている人には、絶対、勝てないと思うよ。
どんなに感動する物語も、その人の生まれてから死ぬまでの軌跡には勝てない。
完璧な理論が発表されて、その内容が最高の出来栄えだったところで、その文章の上には、不完全さを持っている人間がいるよね。
論文の作者が、自分の関わっている世界にどれほど惹かれるあまり目の前にいる人間を軽んじてしまうって、本当によく見かけることだし、何かを突き詰めてくことにつきものなのかもしれないけど、そうすると生きている実感が薄れていくように思う。
ぼくは、その自分の関わる世界をとことんまで追及したいけど、同時に、人間らしい暮らしや感情を大切にしたいな。
完璧さを競うより、人間らしいファジーさとか、タイミングといったものが重要だと思うんだ」
私 「幼い子の世界からも、そうした人間らしいファジーさや、タイミングの大切さが奪われている気がして、何だかもやもやといやな気分になるときがあるわ。
子どもに習い事をさせるのも、小学生や中学生に受験させるのも、塾に行かせるのも、もちろん各家庭の自由で、それに対して、反対というわけではないんだけど……。
でも、現実にそうしたすでに出来上がっている価値の体系に巻き込まれて、子どもそのものから、未知のまだだれにも気付かれていない道を発見してやろう、自分の夢をつかみ取ってやろう、自分のしたいことを創り出してやろうという伸び伸びとした自由な感じが失われているのを見ると、こちらが窒息するような窮屈さを感じるときがあるの」
息子 「うーん。そうだな。テレビやネットの情報のせいかもしれないけど、する前からそれをすることによって何が得られるかとか、どんな気分を味わえるのかが決まっているような感じがあって窮屈だったりするよね。
幼い子たちがピアノと出会うにしても、ゼロの状態で鍵盤に触れて、あっきれいな音がする、とか、何べんも触ってみたいと感じたり、楽しい気分になったり、やっているうちにこれは自分に合いそうだと選ぶとかいう自分の中から湧いてくる思いのタイミングと、目標や夢を設定するタイミングがぴったり合うってことが少ないだろうね。
ピアノなら、最初から先の目的が大人の手で決定づけられていて、上手になるとか楽しむというすでに示されている目的をなぞりながら、楽しいって気持ちまで、予定通りの反応になってるよね。
そうなると、一見、能動的に見える活動も、テレビを見たり、ゲームをしたりするような受動的な活動とあまり変わりがなくなってくる気がするな」
息子 「実体験の大切さを耳にするけど、あらかじめ何を得るかも、どう感じるべきかも決まっている実体験って、どうなんだろう。
そいうものが増えているし、そういうものしか求められなくなりつつもある。
でも、それって、せっかく人生の一場面として素のままで体感できるはずだったものを、疑似体験に変えてしまわないのかな?
生きているのって、何かやって、発見することの連続だ。自分でそれを発見すれば、自分らしさが残るよね。
生きている実感って、その場その場に、そうして自分の存在を残していくことで感じるものだよ。
すでにわかっている……一定の結果を出すように求められ続ける時間が、大人の手によって人生とすり替えられているとしたら、むごいよね」
私 「そうよね。もちろん、そういう体験の全てが悪いって思うわけじゃないけど。
でも、子どものする体験が、親がカタログショッピングでもするように購入した○○コースの一過程ばかりだと……
それこそ、四六時中、そんな体験を梯子して過ごしている子もいるわけだけど……
さっき★(息子)が言ったように、そこから何を得て何を感じるべきか事前に決められているものを、ひたすら体験していく子が、そこで楽しそうにすることも、義務のようにやってみせつつ、ワクワクも好奇心も、ゆっくり自分の内面であたためていこうとせずに、その場その場で消費していく様を見ると、つらいのよ。
どの方向にも歩けるし、どんな歩き方もできるし、どんな利用の仕方もできた土地があったとして、そこに線路ができて、いったん子どもを列車に乗せてしまうと、もうその子は、その線路の方角にしか進めないし、そこで得られる価値は、どれだけの距離をどれだけの時間で移動できるかって価値に限定されてしまうわよね。
もちろん、ただ自由だけを与えたらいいと思っているわけじゃないわ。
でも、昔、大人が、お祭りやら、花火大会やら、夏休みの宿題帳なんかで、子どもに提供していた体験と、今の体験は、同じタイトルがついていても、どこか質が異なるように感じるのよ。
それは遊園地のアトラクションを、事前に情報に目を通して体験するようになった頃から変わってきたのかな?
未知の何が生まれてくるのか想像もつかないような日々の中にどっぷり放り込まれていく感覚とはずいぶん違うわね。」
そういえば、数日前も、これと似た会話をしたばかりでした。
息子 「文章にしても、映画にしても、ゲーム制作にしにても、音楽にしても、もうすでに良い手は出尽くされた感があって、まずはその先人の道を辿って訓練することが筋だとわかっていても、どこかで本気になれないな。
今のぼくたちの世代は、物心ついたときから、できあがってしまっている世界に触れ過ぎて、もう全く新しいものなんて生まれようがないんじゃないか、創造しようがないんじゃないかという冷めた気持ちを持っちゃいがちだな」
私 「全部、手は出尽くした!もうここで頭打ち! って時代の空気があるものね。でも、もう無理!限界!って時こそ、それまでと想像できなかったような新しい価値体系が生まれるんじゃないかしら。
★が前に言ってたでしょう? ネットの世界も、ネットだけっていう従来の遊びから、ネットを介しつつ、同時にリアルな体感を伴う遊びや新しいスタイルの人間関係を作るような遊びが増えてくるんじゃないかって」
息子 「そうだよ。ぼくも、すでに良いものは作られ尽くしているから、他の人の二番煎じじゃ嫌だ、もう新しいものは生まれそうにないからしらけてしまうって、ぼやいている年齢ではないんだよな。
それなら、自分は何ができるのか、創造的にそれを解決するにはどうすればいいのか、自分で考えることが求められる年になったんだよな~。
ぼやいてるだけじゃだめだな。やっぱ。
考えてるんだけどね、いつも。まぁ、がんばるよ」
次回に続きます。