虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

不登校の子の声に耳を澄ます 3

2022-03-24 15:01:44 | 不登校

『学校ってなんだろう』に登場する専門家たちは、学校を、「新しい知識を得、可能性を引き出し、選択肢を広げる場であり、社会性を育んだり、生活リズムを整えたりする意味でも、大事な役割を持っている」とする一方で、次のような意見も付け加えていました。

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学校は一つの学び場に過ぎず、本人が必要とするスキルが得にくい環境なら、他の場所も検討していい(前田佳宏さん)

対話を通じて相手を理解したり、自分の軸、スキルを持って行動したりする力を育めるなら、必ずしも形式的な「学校」にこだわる必要はない (鬼澤秀昌さん)

学校には役割があるものの代替えできないものではない(車 重徳さん)

無理してまで学校に行く理由は何もない。本人が安心できる場所で本人に合った学びができれば良い(政井マヤさん)

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また多くの方々が、学校の教育制度が、約150年間、ほとんど変わらないシステムで続けられてきたことを危惧していました。

そろそろ新しい教育システムへ変えていく時期ではないか、と考えておられました。

確かに、いくら何でも古すぎて、世の中の変化からも、海外の教育法の進歩からも遅れている日本の教育システムが、これから何十年も何百年も存続していくとは考えにくいです。

では、どんな風に変わっていけばいいのか考えを練っていく時、大切になってくるのは、今、不登校になっている子たちの存在なのかな、と感じています。

「学校に行きたくない」という子がいる時、ひどいいじめがあるとか、体罰があるとか、学校の管理が厳しすぎるとか聞くと、それは学校に行けなくもなる、と誰もが納得します。

その一方で、

「友達とも仲がいいし、先生も親切、勉強もそれほど大変でない、でも何となく行けない」とか、

「朝起きるのがしんどい、疲れた、電車通学がしんどい」とか、

「授業にずっと出るのはしんどい。体育や音楽といった好きな教科だけ学校に通って、友達と遊んで帰りたい」

と聞くと、

「甘えじゃないか? 怠けじゃないか? 将来、きちんと仕事に就けなくなるんじゃないか?」と、もやもやを抱えることになるのではないでしょうか?

虹色教室にも、“子ども”というざっくりしたくくりで眺めると、なぜ不登校になったのか、わかりにくい子らが何人かいます。

でも、じっくり一人一人の子と深く関わっていると、わがままという言葉だけで片付けられないさまざまな理由が見えてきます。

 

ある子は感覚が過敏で、繊細すぎて、ちょっとした刺激に圧倒されてしまうため、

ある子はディスレクシア、読字障害のハンディーキャップを抱えているため、

ある子は自分でじっくり考えるのが好きで、丸暗記で学んでいく学習が合っていないため、

ある子はずっと外の世界に合わせる暮らしを続けてきて、燃え尽き症候群の症状が出ているため(一時的に自分自身の内面を育む時間が必要となった)、

ある子はシックハウスのアレルギーがひどいため(学校で症状が悪化し、衝動性が増す)、

ある子はADHDによって、集団で椅子に座って学ぶという活動に、一般的な子の何十倍、何百倍も疲労を感じてしまうため。

そうした子たちは、その子に合った学びを提供すると、きちんと学ぶことができています。

そうした学び方の個性や身体的な特性などによって、知識を得ていく過程では、集団で学ぶのが難しい子たちも、友達を求めます。

友達と関わりながら、社会性や人間関係能力を育む必要もあります。

すると、「自分の好きな教科だけ授業に出る」、「学校は休んでいるけれど、放課後は友達と遊ぶ」と言う形で“登校”することとなります。

子ども側の「学校に行けない」に始まって、新しい学校との関わり方を模索していく中では、次々と課題が見えてくることもあるでしょうし、困った事態にぶつかることもあれば、心配することはなかったと胸を撫で下ろすこともあるでしょう。思わぬ成果もあるでしょう。

こんな工夫によって問題が解決した、とか、さまざまな外部の支援を利用した、とか、時には、子どもを取り巻く社会の暗部に気づくこともあるでしょう。

また、それまでに深い傷を負っている子には、まず心が修復していくまでの長い時間、見守る作業がいりますよね。

そうした時、寄り添う人も子どもも、何一つ前進しているように見えないかもしれません。

でも、「そこで足踏みしていること自体に価値があるのだ」とする精神的なものへのまなざしがいるのかな、と思います。何もしていないように見える時間の流れの中で、子どもも周りの大人も、きっと、深いところから変容していくのだと思います。

みんなに向けてパッキングされた教育を選ばないということは、不安や迷いを抱きながら、恐る恐る暗闇を探っていくようなものです。

他の人の投げかける言葉やまなざしに親も本人も傷つくことも多いはずです。

でも、そうした個別の歩みは、これから教育が変わっていく上で、よくも悪くも貴重な現場の声の蓄積となっていくんじゃないか、と感じます。それぞれの個性と向き合った工夫と努力の結晶ですから。

 

うちの息子は、不登校にはならなかったものの、学校のシステムにはかなり不満を抱いていたようです。

就職の際には、どのような働き方がしたいのか悩み抜いて、自分の個性に合った仕事を選んでいました。

学校が辛い子に知ってほしいこと の中で、就職して三年目に入ろうとする息子の言葉を綴っています。

 

前回までの記事に、★くんのお母さんからコメントをいただきました。

何一つ正解が見つけられない状況の中で、苦しみもがきながら、親としてできる最善を探っておられるのがよくわかりました。

★くんのお母さんも★くんも、今、真っ暗な闇の中にいるのでしょう。

そう思うと、ふと、ル・グウィンの「目をくらませる明かりの中ではなく、栄養物を与えてくれる闇の中で、人間は人間の魂を育むのです。」という言葉をお伝えしたくなりました。

長くなりますが、過去に書いた記事を貼らせていただきますね。

 

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ゲド戦記の著者として有名なル・グウィンの「左ききの卒業式祝辞」という文章を目にして、いろいろなことを考えさせられました。

誰もが一直線に成功を目指して、どのポジションについたか、何を獲得したかで人の優劣を判断したり、人生の価値を品定めしたりするのは、自分の持てるすべてで宝くじを買って、上位の当選を夢みて生きるようなものなのかもしれません。

宝くじが当たらなかった時、手元に残ったくじは、すべて紙屑と化してしまいます。

でも実際の人生では、成功という当たりくじは、親の期待やその時代の世間の見方が与えた幻想で、個人的な生きる喜びを感じることや自分を活かせる場、自分を高めていく機会は、はずれくじだと思っていたものの方にあるのでは……とも思います。

「目をくらませる明かりの中ではなく栄養物を与えてくれる闇の中で、人間は人間の魂を育むのです。」というル・グウィンの言葉が心に響き、ふいに、心理療法士のP・フェルッチのこんな言葉を思い出しました。

「(人生とは)試み、失敗、学習体験、そして成功などから成っている旅。より大きな意味と気づきへの進行形の旅。あるいは旅になり得るもの。」

「人は偶然や、間違いや、思いがけないことからトランスパーソナル・セルフ(生物的構造の中にある中核)を充分に実感することができません。

すべての注意を傾け、役立つものはすべて役立てる系統的なアプローチによってのみ、実感することができるのです。」

P・フェルッチは、境界、執着、所有、競争、死への不安などの上に築かれるわたしたちの通常の自己感覚に対して、トランスパーソナル・セルフにある自己感覚は、存在の純粋な気づきと「すべてのもの」との一体感に基づくものと説明しています。

 

ル・グウィンの「暗闇で生きてください」という言葉が、何について語っていたのか、想像するしかできませんが、わたしたちが「成功」のイメージをフェルッチのいう通常の自己感覚の枠内で設定するなら、ル・グウィンが語る暗闇とは後者の「すべてのもの」との一体感に基づく自己感覚が横たわっているところなのだろうと感じました。

 

暗闇といえば、まだ息子が小学生だった頃、息子の質問をきっかけに、こんな詩を書いたことがありました。

11歳の孤独

 

子どもたちと接していると、どの子にもいえることなのですが、自分の生きている世界や自分自身について深く考えるようになる年がくると、子ども時代の根拠のない万能感は失われていきます。

自分を客観視できるようになるほど、特別でも完璧でもない地球上に数えきれないほどいるちっぽけな自分が感じられるようになるのです。

そうして、身ひとつで、あちこちにぶつかりながら歩いていくことしかできません。

 

でも、そんな小さな存在が、頭の中に広大な宇宙を取り込んで思考していくこと、混沌から自然に立ち現れてくる秩序について気づき、夢想すること、自分の内奥を探っていく孤独な仕事に取り組みだす姿に触れると、人の不思議を思います。

人の中核にあるもの、能力や体験が生じてくる源を垣間見たような心地になります。

 

話が脱線しますが、トランスパーソナル・セルフについての話題が出たついでに、P・フェルッチが教育について述べている言葉をここに書いておこうと思います。

ここに書かれている教育について思う時、ただ、他者に勝利してよいポジションを勝ち取ることを教育のなかで後押ししていくことのむなしさに気づきます。

そこで自分の意志とは関係なく煽られる子どもたちはなおさらです。

成績で評価できるテストに合わせて、子どもの資質を価値づけして、伸ばしたり、無視したりしている現状をどうとらえるべきか、ひとりひとりの人の個性や才能を育んでいくには、どのような考え方を土台に据える必要があるのか、多くの人が、教育について、じっくりと考えをめぐらせていくことを願います。

 

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子どもや生徒のなかにトランスパーソナル・セルフの存在を認めることは、その人のなかの価値あるすべてのものにいのちを与えることを意味します。

本当の意味での教育とは、人がトランスパーソナルセルフへの道を歩むのを手助けすることなのです。

発明の才能、共感、勇気、集中、美の鑑賞、直観力、細部への注意、分析的な考え方や統合的な考え方、身体を通じて喜びを呼び覚ます能力、目に見えない世界への気づきと意識の広がり、苦痛への建設的な態度など、能力や体験はすべて、認知し、刺激することが可能なものです。

このような教育は、もはや単に情報を伝えるだけのものではなく、「ユニバーサル(普遍的)な人間」を呼び起こすものです。

 

『人間性の最高表現』P・フェルッチ 誠信書房 (一部を要約して引用しています)

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上のイラストは、子育て中(特に娘や息子の子育てで、困ったな〜という事態に遭遇した時)に書いた詩につけたものです。↓はその詩です。

ある日の娘 ある日の息子



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1 コメント

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Unknown (アキコ)
2022-03-25 16:50:58
不登校といっても原因はさまざま。息子のケースは特別なことではない。我がままでもなく・・・という考え、とても救われました。そして「学校が辛い子に知ってほしいこと」の息子さんの言葉、ありがとうございました。希望が持てます。そしてルグウインの「栄養物を与えてくれる暗闇の中で、人間は人間の魂を育む」ということ、ドキッとしました。
昨日、ひさしぶりに学校へ行き、3年生の教科書を購入してきました。しかし今日の終業式は欠席しました。今日は息子のスポーツの業績を全校生徒の前で表彰しようと先生たちが考えてくださっていた日でした。でも「人前で褒められて目立つのは苦手。しかも、頑張って努力して得た賞ならばうれしいけれど、しばらく練習していなかったのに偶然もらった業績を褒められるのは耐えられない。」と私に訴えて欠席しました。先生の気持ちを思うとやり切れません。いっぽう、息子が求めているのは教師からの精神的な応援ではないんだな、と感じました。
息子に「少し斜め上」の存在になる人がいればよかったです。親や先生、友達ではなく、歩いてきた自分の背中を見せてくれるような誰か。
ちょっと逸れますが、今の大学入試制度などは、メタ認知能力が高いと辛くなるような気がします。(0.1点足りずに落ちてしまう、努力よりも才能で大部分が決まってしまう、親の経済力など)あまり深追いしてはいけない部分は片目をつぶってサクッと通り過ぎてしまいたくなります。悩むのは通り過ぎてから。長くなってしまいすみませんでした。どこにもぶつけられない気持ちを受け止めていただき奈緒美先生と息子さんの言葉に感謝いたします。少しずつ頭の中を整理していきます。
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